Nagoya、Kobe、Himeji、Gifu、Awaji yumebutai

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2010年8月23日 星期一

できれば所在不明のままでいてほしい

足立区で都内最高齢とされる男性がミイラ化した遺体で発見された事件は、当初、奇妙奇天烈奇々怪々な事件として報じられた。
 なにしろ相手がミイラだから。

 111歳(←生きていれば)という年齢も驚きだったし、遺体が30年を経たものであるらしい点も特異だった。家族によれば、本人は30年以上前のある日「即身仏になる。絶対に開けるな」と言い残したきり、部屋から出てこなくなったのだそうだが、その証言の真偽も含めて、当件はどこまでも素っ頓狂だった。

 だから、世間の人々も、第一報を聞いた段階では、誰もが特殊な家庭に起こった例外的な事件だというふうに受け止めていた。私もだ。どうにも浮世離れしていると思った。猟奇的に見える半面、牧歌的な感じもある。お伽話みたいだ。昭和拾遺物語。ワンスアポンアタイム・イン・アダチク。

 ところが、同じ事件について、年金の不正受給の疑いが報じられると、コメンテーターの論調はガラリと変わった。夢が醒めたみたいなぐあいに。なるほど。カネの匂いはすべてを消臭する。物語りっぽさも。
 で、ニュースは、類似の事案を導き出す端緒となった。新たなミイラを召喚したのではない。別の遺体が発掘されたのでもない。所在が確認できない高齢者の記録が、全国で見つかったのである。それも、百歳を超える幻の高齢者たちの、行き先を辿れない書類が。続々と、だ。
 彼らはどこへ行ったのだろうか。
 ニュースショーの司会者は、お盆からこっち、毎日びっくりしていた。
「本当にこれはいったいどういうことなのでしょうか」

 私は、正直に申し上げて、さほど驚かなかった。
 実際にご老人が消えたわけではないからだ。誰にだってわかることだ。彼らは消えたのではない。ただ、所在が確認できていない。それだけの話だ。
 というよりも、有り体に言って、書類上の処理が滞っているということ以上でも以下でもないのだ。
 とすれば、これは大いにありそうな話ではないか。
 私だってしょっちゅう行方不明になる。

「オダジマさんはいません」
「いない? どうしてだ? なぜ消えるんだ?」
「知りません。何度連絡しても不在です」
「携帯は?」
「不通です」

 そう。電源を切れば良いのだよ。簡単な話だ。
 で、鎖切った男(←「腐り切った男」by Atok)として午後の町をさまよう。必要な時間だ。こうしておいた方が何かと都合が良いのだ。私と、私を捜す側の人々の双方にとって、真相は電波の届かない場所に放置しておいた方が万事丸くおさまる。そういうものなのだ。

 ご老人の遺族もまた多くの場合、ご老人だ。百歳超ということになれば、息子や娘だってすでに後期高齢者だ。すべての手続を遺漏なくこなせるとは限らない。百老百態。様々な事情がある。お役所の窓口だって、ある程度年齢の行った人間に対しては、そんなにせっついた対応はしない。納税も期待できないわけだし。であるならば、多事多端な日常の中で記録だけが生き残っていくという事態は十分に考えられる。

 死亡届は出ていないものの、確たる生存確認には至っていないケース。こういうグレーゾーンは、ある確率で必ず発生する。しかも、こういう玉虫色の記載事項については、役所によって扱いが違う。税務署はどこまでも執念深く標的を追うだろう。彼らはハンターだから。

 しかしながら、そのほかの役所は必ずしも追跡者ではない。ハイエナでもない。住民基本台帳を扱う係のお役人はずっと鷹揚だ。鷹揚。ハゲタカの旋回とは違う。その他、転出届や転入届や死亡届や行方不明者の捜索願を受け付ける係の人々もそれぞれにそれぞれな仕事をしている。すべてのお役人が同じ解釈で動いているとは限らない。誰もがハゲタカ基準で働いているわけではない。当然の話だ。

が、「消えた老人」の話は、メディアにとって格好のフックになった。
 話題として使い勝手が良いからだ。

 たとえば、「家族の絆の希薄化」「地域共同体の崩壊」ぐらいな話題に持ち込むための導入部として扱えば、コーナーをちょっとセンチメンタルな方向に誘導することができる。夕方の時間帯のニュースに不可欠な湿度をもたらすための蛇口みたいなニュース。逃す手はない。

 「戸籍制度の盲点」「役人の怠慢」「税金の無駄遣い」というおなじみの方向に持って行くテもある。画面を指さしてズバッと指摘すれば一丁上がり。なあに手慣れた仕事ですよ。
 どっちにしても語り手は当件をとっかかりに、お手軽な社会批評を展開することができる。とすれば、こんな素敵なネタはない。着地点は「いやはや大変な世の中になりましたね」ぐらい。どうにでもなる。そうやって慨嘆していればQシートは埋まる。次はスポーツです。つなぎのニュースとしては完璧だ。ちょっと湿っぽくて懐かしい昭和のエートスを感じさせるトピック。

 役人の怠慢を責めるのはたやすい。
 でも、実際の話、事件後二週間を経て、二百数十人の所在不明老人が発覚したのだといって、これは「異常事態」なのだろうか。私には極めて自然ななりゆきであるように思えるのだが。だって、三百人弱ですぜ。何千万人のうちの。ほんの端数ではないですか。

 日本の戸籍制度は世界でも類を見ない精密なシステムだと言われている。
 国民の出生や死亡や現住所や婚姻の有無や相互の血縁関係について、わが国の役所は、非常に正確な情報を把握している。少々行き過ぎではないかと思う程だ。たとえば、中南米や東南アジアの諸国の中には、そもそも戸籍そのものが存在していない国があったりする。住民台帳に似たものがあっても、そこに記載されているデータは必ずしも正確でない場合が多い。中国にしてもそうだ。都市部には膨大な数の無戸籍者が流入している。正確な数は把握できない。把握していないものの数は数えることができない。統計化することもできない。当たり前だ。

 その点、わが国の戸籍謄本には、まったく逃げ場所がない。どこに引越しても、お上にはすべてがお見通しだ。われわれは金魚鉢に似た環境で暮らしている。透明性。誰のための、だ? そのくせ、うっかり電話料金を滞納すると、その日のうちに回線が遮断され、都市生活者はいきなりロビンソンクルーソーになる。住民票の移転を怠っただけで住所不定の扱いを受ける。と、彼はもう市民ではない。金魚鉢を飛び出した金魚。野良犬より始末に負えない。野良金魚。息もできない。なんということだろう。

 今回の非実在後期高齢者続発事案は、あくまでもレアケースだ。
 うちの国のがんじがらめな住民台帳システムにも、若干のアナがあったということに過ぎないからだ。
 とすれば、これはむしろ慶賀すべきことではなかろうか。少なくとも私はほっとしているが。

 1980年代のはじめ頃、私は、学校を出てはじめて勤めた会社を八カ月で辞めた。で、退社に伴って、大阪の豊中というところから住民票を東京に戻した。と、ほどなくその豊中市からハガキが届いた。住民税を納めていなかったからだ。

 ふむふむと思って放置していると、しばらくして、より脅迫的な文面の督促状が郵送されてきた。そこには納税が市民の義務である旨と、滞納を続けると延滞金が課せられるという意味のことが書いてある。なるほど。私はその督促状をさらに暫時放置してみた。

 と、敵は一段と脅迫的な文面の督促状を送ってくる。今度は差し押さえを示唆している。期日までに所定の金額が振り込まれなかった場合、われわれは強制的な措置に踏み切るであろう、と。肝心なところは赤字の太字で書かれている。しかも下線入り。やるじゃないか豊中。

私はちょっと盛り上がった。
 なんだか権力と対峙している気持ちになったのでね。
 豊中税務署の署員は、たかだか2万円ばかり(←記憶では延滞金コミで2万数千円だった)の市民税を取り立てるために、本当に出張してくるのであろうか。交通費にさえならないんじゃないのか?

 で、事情通の友人に相談してみた。どうだろう。これって放っとけばテキも諦めるんじゃないか、と。
 答えは

「さっさと払えよバカ」

 の一言だった。
 問題は徴税人がやってくるか否かではない。差し押さえが実行されるのかどうかでもない。一旦確定した税額は絶対に逃れられない。そこのところが理解できない人間は一生涯マトモな社会人になれない。だから払えと言うのだ。ぐだぐだ言ってないで。

「税務署っていうのは、警察以上にマジな全国組織だぞ」

 とそいつは言っていた。税務署は地域ごとに細かく区割りされているように見える。が、横の連絡は完璧で、どこに逃げても、どこに引越しても、彼らは地球の果てまで追いかけてくることができる。絶対に逃れることはできない。あのルパン三世でさえきちんと青色申告をしている。だからお前も払え。宇宙人じゃないんだから。

 税務署のネットワークは住民基本台帳のすべてに及んでいる。だから、どこからどこに何回転出しても彼らにはすべてがわかっている。決して逃げることはできない。

 とはいえ、税務署とて、収入の無い人間は追跡しない。
 そういう人間はネグレクトされる。

 羊飼いは乳を出す羊の数を決して間違えない。必ず正確な数を把握している。毛を刈る羊の顔も間違えない。常に明確に記憶している。でも、乳を出さなくなった羊や、毛を刈ることのできなくなった老いた羊の数は把握していない。というよりも、そういう羊は既に肉になっている。ということはつまり、いまはもうこの世には居ない。だから数える必要もないし数えることもできない。どうせ骨なわけだから。

 お国も同じだ。
 お役人は、乳を出さず、羊毛を生まない国民の数を数えることに、情熱を持っていない。きわめて自然なことだ。肉にしないだけ温かみがあると考えるべきなのかもしれない。

 今回の報道のあおりを受けるカタチで、各地のお役所がご老人の所在確認をはじめるようだ。
 なるほど。なんだかとても鬱陶しいことになる予感がする。
 藪を突ついて蛇を召喚する結果にならなければ良いのだが。

 だって、テキはお役人ですよ。一筋縄ではいかない。そう考えなければならない。
 役人に仕事を与えるということは、彼らの自己保存に協力するということにほかならない。
 しかも、この仕事は、9割以上が無駄足になることがはじめからわかっている。そういう仕事だ。

 無駄足。すなわち彼らの主たる業務だ。というよりも、無駄足や無駄口こそが彼らの飯のタネなのだ。

で、無駄足のついでに、お役人衆はどうせ余計なものを見つけてくる。
 所在不明高齢者のための生活維持基金機構の設立準備委員会だとか、所在確認事業の経費を算出するための新たな人員の確保だとか、そういうSFみたいなことを言い出す……ようなことは、いくらなんでも無いだろうが、それでも、彼らが動いた分だけの人件費は当然お国なり地方公共団体が負担しなければならない。

 消えた年金の時もそうだったが、官僚にとって、怠慢はひとつの事業だ。今日の怠慢が明日の仕事を生む。そういう構造で、彼らの組織は動いている。事実、年金が「消えた」ことは、新たな業務(年金追跡事業)を生んでおり、おかげで、彼らの組織は一時的にであれ、延命し、焼け太りし、商売繁盛している。

 老人は放っておけばよろしい。
 むしろ、対象者の顔を検分する必要があるのは、児童相談所に通報のあった事例についてだと思う。
 ま、話は別だけど。
 とにかく、関係者のアリバイのために不在者の出欠をとったところで何の意味もない。
 居ない人間の出席をとることはできない。

 ひとつ思い出した。
 非実在高校生の出欠についてのエピソードだ。

 今から30数年前、私が通っていた当時の都立高校では、「代返」という習慣が横行していた。今でもあるのかもしれないが。

 教師が出席をとる時に、「代理」で「返事」をするから、「代返」。むろん、不正行為だ。が、出来の良くない高校生が安全に授業をサボるための相互扶助策として、代返はとにかく流行していたのである。

 理系と文系をコース分けしていなかった私の高校では、生徒の受験科目に配慮して、出欠確認そのものをオミットしている教師が何人かいた。物理の先生がそうだった。私立文科系志望の生徒に物理の授業への出席を強要するのも気の毒だと、そういうふうに考えてくれていたのだと思う。その配慮がわれわれの未来にとって良かったのか悪かったのかは、簡単には判断できない。が、とにかく当時の私にはありがたかった。

 ほかの教師も、出欠の確認にはさほど熱心ではなかった。多くの教師は明らかに代返とわかる場合でも、適当にスルーしてくれていた。まあ、大人の対応ということだったのだと思う。

 が、一方には、頑として出欠にこだわる先生もいた。たとえば、世界史の先生がそっちの組の代表だった。信念があったのだと思う。
 彼は、名簿順に名前を呼んで返事を確認するだけでは満足しなかった。教卓に常備してある座席表を見て生徒の名前を呼び、一人一人顔を確認ながらその返事を確認していた。これでは逃れようがない。代返なんかとても無理だ。

 でも、抜け道はあった。天上から垂れる蜘蛛の糸の如き細い道が。
 ある生徒(←岡康道だが)が、座席表を偽造するテを思いついたのだ。

 世界史の授業が近づくと、岡は、自分の名前を抹消した自作の座席表を教卓にある本物の座席表と差し替える。ついでに机と椅子もベランダに運び出して、そのままどこかに消えてしまう。と、教師がいくら執拗に顔を確認しながら出欠を確認しても、そもそも名簿に名前が無いのだからして欠席が発覚することもあり得ない。

 なんという素晴らしい生活の知恵。
 でも、勝利は長続きしなかった。追随者が2人3人と増え、4人7人と増殖するにつれて、教室の人口密度が明らかに不自然な空虚さを醸しはじめたからだ。

で、無駄足のついでに、お役人衆はどうせ余計なものを見つけてくる。
 所在不明高齢者のための生活維持基金機構の設立準備委員会だとか、所在確認事業の経費を算出するための新たな人員の確保だとか、そういうSFみたいなことを言い出す……ようなことは、いくらなんでも無いだろうが、それでも、彼らが動いた分だけの人件費は当然お国なり地方公共団体が負担しなければならない。

 消えた年金の時もそうだったが、官僚にとって、怠慢はひとつの事業だ。今日の怠慢が明日の仕事を生む。そういう構造で、彼らの組織は動いている。事実、年金が「消えた」ことは、新たな業務(年金追跡事業)を生んでおり、おかげで、彼らの組織は一時的にであれ、延命し、焼け太りし、商売繁盛している。

 老人は放っておけばよろしい。
 むしろ、対象者の顔を検分する必要があるのは、児童相談所に通報のあった事例についてだと思う。
 ま、話は別だけど。
 とにかく、関係者のアリバイのために不在者の出欠をとったところで何の意味もない。
 居ない人間の出席をとることはできない。

 ひとつ思い出した。
 非実在高校生の出欠についてのエピソードだ。

 今から30数年前、私が通っていた当時の都立高校では、「代返」という習慣が横行していた。今でもあるのかもしれないが。

 教師が出席をとる時に、「代理」で「返事」をするから、「代返」。むろん、不正行為だ。が、出来の良くない高校生が安全に授業をサボるための相互扶助策として、代返はとにかく流行していたのである。

 理系と文系をコース分けしていなかった私の高校では、生徒の受験科目に配慮して、出欠確認そのものをオミットしている教師が何人かいた。物理の先生がそうだった。私立文科系志望の生徒に物理の授業への出席を強要するのも気の毒だと、そういうふうに考えてくれていたのだと思う。その配慮がわれわれの未来にとって良かったのか悪かったのかは、簡単には判断できない。が、とにかく当時の私にはありがたかった。

 ほかの教師も、出欠の確認にはさほど熱心ではなかった。多くの教師は明らかに代返とわかる場合でも、適当にスルーしてくれていた。まあ、大人の対応ということだったのだと思う。

 が、一方には、頑として出欠にこだわる先生もいた。たとえば、世界史の先生がそっちの組の代表だった。信念があったのだと思う。
 彼は、名簿順に名前を呼んで返事を確認するだけでは満足しなかった。教卓に常備してある座席表を見て生徒の名前を呼び、一人一人顔を確認ながらその返事を確認していた。これでは逃れようがない。代返なんかとても無理だ。

 でも、抜け道はあった。天上から垂れる蜘蛛の糸の如き細い道が。
 ある生徒(←岡康道だが)が、座席表を偽造するテを思いついたのだ。

 世界史の授業が近づくと、岡は、自分の名前を抹消した自作の座席表を教卓にある本物の座席表と差し替える。ついでに机と椅子もベランダに運び出して、そのままどこかに消えてしまう。と、教師がいくら執拗に顔を確認しながら出欠を確認しても、そもそも名簿に名前が無いのだからして欠席が発覚することもあり得ない。

 なんという素晴らしい生活の知恵。
 でも、勝利は長続きしなかった。追随者が2人3人と増え、4人7人と増殖するにつれて、教室の人口密度が明らかに不自然な空虚さを醸しはじめたからだ。

できれば所在不明のままでいてほしい

2010年4月14日 星期三

他人事ではない100人の『転落』 〜30代独身者はホームレス予備軍?

15年間、「定点観測」したのは、新宿中央公園だった。

 観測対象は、ホームレスである。

 バブル崩壊後、当時まだ短編映画のカメラマンをしていた著者(現フリーライター)は西新宿に通い始めた。この公園を中心に都内の300人以上のホームレスを取材するために。本書にはそのうち100人分の「現在に到る」までの来歴が載っている。

 日雇いの仕事で稼ぐと、お金は酒やギャンブルに消え、なくなれば借金。家族にはそっぽを向かれ、行き着く先は路上の人。

 これが、これまでの典型的な「最底辺」への落ち方だった。全体に低学歴の人が多く、最後は自らホームレスになろうとしてなったフシもある。学歴はともかく、酒やギャンブルへの依存や社会保険未加入など自業自得と言われてもしかたないところも目立つ。

 ところが、今は自分の失策ではない、不可抗力でホームレスに転げ落ちる人が多いという。

きっかけは上司との軋轢

 東大卒の高学歴者や、元一流企業社員、元経営者など「勝ち組」だった人が少なくない。しかも、酒やギャンブルと無縁の人も多い。かつては全身垢だらけの人が大多数だったが、今は、「いつでも働きに出られるように」と、ヒゲを毎日剃るなど身ぎれいにするホームレスが増えた、と著者は言う。

 名だたる上場企業が、正社員の早期希望退職者を募集する「年齢条件」を、「50歳以上」から「40歳以上」に低く設定するなど、なりふり構わぬリストラ策に出ている。

 いいように切り捨てられるのは非正社員だけではない。正社員も今や「末端」である。しかも、不慮のケガや病気といった災厄は誰にも予告なく降り掛かる。

 すべての人にとって収入が完全に途絶える危機は、すぐそこにある。

 となれば、不可抗力でホームレスに「転げ落ちてしまった人々」の失敗から学ばなくてはならないだろう。

 例えば、本書に上司との軋轢がきっかけで転落した人が登場する。

 丸の内に本社のある大手鉄鋼メーカーに勤務していた男性。仕事はユーザー企業の工場ラインなどのシステム設計だった。月の残業時間は150時間と多忙だったが、それなりに充実していた。

 しかし、ある時、直属の上司にソリの全く合わない人物が配属され、やる気はみるみる減退。会社に自分の居場所を失い、約20年のサラリーマン生活は39歳の時に終わった。

 独身で、そのまま田舎に戻り就職したが、給料は低く退職金をくいつぶす。その後はサラ金の借金地獄に陥る。金の使い道など詳細を本人は語ろうとしないが、浪費が続いたのだろう。

 最後はにっちもさっちもいかなくなり、親に迷惑をかけてはいけないと東京へ舞い戻る。サラ金により乱れた生活リズムを戻すことができぬまま街を漂流したようだ。

 職場の人間関係は本当に難しい。

 相性が合わない人とチームになっての仕事ほど苦痛なものはないだろう。戦略の立て方や進め方、価値観が異なればやりにくいし、余計な消耗も多い。ソリの合わない上司からの評価が低くなれば、給料も減るかもしれない。

 別のケースでは、部下のミスの責任をとって大手企業を退職したホームレスもいた。

 いずれも不幸な出来事としか言いようがない。

しかし厳しい言い方かもしれないが、社内での基盤がいささか脆弱だったのではないか。身近なスタッフと良好な人間関係を構築したり、いざという時に頼りになる社内外の人脈を作ったりという、転ばぬ先の杖を作る努力はしていたのか。

 相談し信頼できる同僚がいれば退職は回避できた可能性もある。

 何しろ「嫌な上司」や「アホな部下」はどこにもいるのだ。そのたびに誰かが会社を辞めねばならないのは、ずいぶんおかしな話である。

 もうひとつ、本書を通じて「社内基盤」の弱さとともに、会社組織でのポジションを失ってしまう遠因と感じられるのが、社員としての「影の薄さ」である。

 著者は次のように指摘する。

〈ホームレスには何事も一歩引いて譲ってしまう人が多く、他人と争ってまで強引に仕事を得るような人は少ない〉

〈おとなしい性格で、人を押しのけてでも生きていくのが苦手な人や、人付き合いが苦手な人などが、非常に生きづらい時代である〉

 つまり、〈無口で少し変わり者を許容しない〉のが現代だ、と。

 以前なら、無口でおとなしくても、普通に仕事ができれば共同体の一員として認められた。しかし今では、キャラが立ってない人、押しの弱い人、他人とのコミュニケーションがとれない人は、存在価値が小さいと評価され、共同体からつま弾きにされてしまうことさえあるのだ。

 理不尽極まる。彼らは影が薄かろうと、働く意欲はあるのだ。前述のように、小ザッパリした身なりで社会とのつながりを失うまいと懸命な人が多いのである。

 にもかかわらず、職は与えられない。住所不定者は生活保護も申請できない。

「女性問題」という落とし穴

 会社以外にも、意外な落とし穴がある。「女性問題」である。

 そのひとつは、離婚。酒に溺れる夫は妻から三行半をつきつけられ、「仕事を失い、妻子も養えない俺はロクデナシ」と、「女の一人も御せない」自分に完全に萎えてしまう。

 ふたつめは、独身率の高さである。聞き書きした100人中、未婚者が37人いた。

 著者は、未婚か既婚かが、「ホームレスに堕ちてしまう人と、一般社会に留まる人を峻別するカギ」のひとつと指摘する。なぜ未婚者が「危険」なのか?

 結婚や育児には相手の人生を引き受ける覚悟とエネルギーが必要、と考える著者の目からすると、新宿中央公園などをねぐらとする人々の彼らにはその覚悟やエネルギーが希薄な人が多い、という印象を強く受けるそうだ。

〈彼らは土壇場で、それ(結婚や育児)に立ち向かったり、踏みとどまろうとしなかった人たちのような気がする。むしろ、それを回避したり、結論を先延ばしにしてきた人たち〉

 人の人生を引き受けるなど真っ平ごめん。

 「面倒臭い」と、けじめなくズルズルとした生活リズムがホームレスになった原因のひとつとすれば、未婚率が異様に高い現代の30代以降の男性は、もしかして「ホームレス予備軍」か。

いくら大企業に勤務していようと、結婚や離婚など、女性を巡る態度や意識において「腰が引けている」のならば、“ホームレス指数”が高いといわれてもしかたがないかもしれない。

 著者は言う。

〈ホームレスになる確率を少しでも下げるなら、人生のモラトリアム期間を短くする工夫が必要だろう〉

実家がセーフティネットにならない時代

 最後に、もうひとつ。本来、ホームレスにならなくてもすむ人が転落してしまう想定外の理由があった。

 それは、実家問題である。

 本書に登場する、リストラや三行半を宣告されて身寄りのないホームレスの多くは、異口同音に「実家には世話にはなれない」と言う。例えば、実家を継いだ兄の一家、嫁や甥、姪が住む空間に、自分のような落伍者が入っても肩身の狭い思いをするだけだ、と。

 確かに迷惑者だが、「ちょっとだけ緊急避難を」と彼らは言えない。

 同時に迎える実家側も、かつては居候や出戻り、食客などを含め「家族」とみなす余裕があったが、今ではそんな精神的なゆとりは失われたことに著者は気づく。

 日本人の家族観や絆が変容する中で、「最悪の場合は、実家に戻る」というは機能しなくなったというのである。

 仕事が忙しい。郷里が遠い。

 とかく帰省する回数は減り、親・兄弟と疎遠になる人も多いが、肉親とのルートを絶えず良好なものにしていくことが、いざという時のリスクヘッジになるのではないか。

 実家にも頼れない今、最後の最後は、やはり路上の人になるしかない。しかし……。

 本書によれば、近頃は、ホームレスに無銭飲食された店は彼らが身に付けるアクセサリーを取って、それをお金にするらしい。警察に突き出してもお金は戻ってこないからだ。

 また、その警察も無銭飲食の確信犯と知りつつ、ろくな調書もとらず解放することもあるらしい。すべてを刑務所に入れたらたちまち満員になるからである。

 食事とねぐらの確保はかくも難しい時代となった。本書には「じっと死を待つ」というホームレスも多かった。

 育った家庭や、勤めた職場、再就職の壁など「生きるための条件」がほんの少し悪いだけで人はつまずく。

 〈不況などで職を失い、不本意ながらいまの境涯に堕ちた人が大半である。その彼らを救うことのできない社会システムの不備を訴えておきたい〉という著者の言葉は誰にとっても他人事ではない。

2008年11月12日 星期三

スペイン国王夫妻迎え晩さん会 両陛下

国賓として来日中のスペインのフアン・カルロス国王夫妻を招いた天皇、皇后両陛下主催の宮中晩さん会が十日夜、皇居・宮殿の「豊明殿」で開かれた。

 冒頭、陛下、国王が互いにスピーチ。陛下は「両国の関係がより一層緊密になり、両国国民の相互理解がさらに深まることを希望します」とあいさつ。国王は「両陛下と私どもを結ぶ愛情のきずなが両国の皇太子にも受け継がれ、両国関係の今後の発展の大きな支えになっていくだろう」と述べた。両陛下、国王夫妻はフランス料理を共にして歓談した。

 晩さん会には皇太子さま、秋篠宮ご夫妻ら七人の皇族を含む約百四十人が出席。今年成人した高円宮家の次女典子さまは、初の晩さん会となった。午前中の歓迎行事に出席した雅子さまは欠席した。

##HIDEME##