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2010年6月21日 星期一

五部電影的聯想

二戰時期法國分裂成維西政府與自由法國,當時的電影是否扮演了政治宣導的媒介 ?


法國唯一一次向希特勒投降發生在1940年6月22日。

投降造成了法國國內的分裂,國內另立傀儡政府維希政權。
維希政府由納粹德國扶植成立,設在法國南部城市維希,名義上統治整個法國,實際上卻允許納粹德國在佔領區內任意橫行。
維希政府由法國一戰英雄貝當元帥出任政府元首,推行賣國政策。


1940年 6月德國侵占巴黎後,以貝當(Henri Philippe Pétain,1856年4月24日-1951年7月23日)為首的法國政府向德國投降,1940年7月政府所在地遷至法國中部的維希 (Vichy),故名。
正式國號為法蘭西國 ,統治大約五分之三的法國領土。
二戰法國即將戰敗時,一戰英雄貝當任副總理 ,要脅總理阿爾貝·勒布倫 (Albert Lebrun,1871年-1950年)讓位給他,向德國投降。

隨後在維希舉行國會投票,利用他的崇高威望,使國會選舉他為元首 ,改國號 ,實行法西斯獨裁。 國會成為諮詢機構。
當時除英國之外的國家都承認維琪政府為代表法國的政府。

在1944年盟軍登陸法國後,維希政府遷往德國的希格馬林根 ,次年垮台。
不少的維希政府官員與成員在戰後都受到法國政府的通緝與囚禁。
貝當曾在第一次世界大戰期間擔任法軍總司令,帶領法國與德國對戰,被認為是民族英雄,1918年升任法國元帥。
但他向德國投降,至今在法國仍被視為叛國者,戰後被判死刑,後改判終身監禁,被囚禁在大西洋中Île d'Yeu島的一個要塞中直到1951年病故。


自由法國

1940年6月德國侵略軍未發一彈就佔領了“不設防城市”巴黎,法國陷入一片恐慌。
法國總統雷諾把老態龍鍾的亨利貝當元帥調回國內,組成傀儡政府,也就是維希政權,他聲稱與德國合作是保護法國人民的唯一方法。


在維希法國向 納粹德國 投降時,戴高樂逃亡至英國 ,於6月18日透過英國廣播公司 (British Broadcasting Company,BBC),發表《 告法國人民書 》的演說,號召法國人民不要放棄希望,“法國抵抗的火焰都不能熄滅,也絕不會熄滅” ,這標誌了「 自由法國 」( France libre )運動的開始。

1944年 7月 ,法國被盟軍光復,自由法國政府解除任務並解散,由法蘭西共和國臨時政府取代。



Casablanca


『 北非諜影』Casablanca背景設置在二戰中受維希法國控制的摩洛哥城市卡薩布蘭卡 。
本片是根據Murray Burnett和Joan Alison尚未完成的Everybody Comes to Rick's 改編。
故事開始時已是二戰期間,玩世不恭的美國人Rick Blaine在卡薩布蘭卡開了一家名為「Rick美式Cafe」的酒吧 ,而且擁有兩張寶貴的通行證。
「Rick」廣受歡迎,顧客不只有納粹黨與維希法國的人員,更是歐洲 難民最常去的地方。
Rick忍著內心的痛苦,目送情人與他人遠去的一段成為愛情電影的經典。

1942年11月8日,盟軍在北非登陸 ,當時在維希法軍佔領下的塞內家爾等西非國家紛紛陣前倒下戴高樂的自由法國。

火炬行動是美英軍進攻法屬北非戰役的代號。而卡薩布蘭卡就是巴頓將軍麾下的美國部隊進攻摩洛哥的第一站。

『 北非諜影』就在火炬行動數週後公開放映。該片被公認是史上十大名片之一,被認為不只是一部令人心碎的愛情電影,實際上更是一部宣揚民族主義和愛國主義電影,讓觀眾認清維希法國是全法國的敵人。

直至今日成為摩洛哥的首善之都的卡薩布蘭卡,城市中的高級大飯店還保留了電影中的氣氛,成為吸引觀光客尋訪電影遺跡的熱門景點,『 北非諜影』意外成了前來推銷摩洛哥觀光的PR電影。


To have and have not



另一部同為Humphrey Bogart主演的電影《To have and have not》於巴黎被解放後的 1944年10月上映。
本片的風格近似《北非諜影》Casablanca, 改編自海明威的小說,同樣是以戰爭為背景的電影,但這次是法國被德國占領,而不是法國占領卡薩布蘭卡。

故事背景是二次世界大戰法國被德國納粹佔領時的馬蒂尼島,Bogart飾演一艘專門接待遊客海釣的遊艇美國人船主,本來生活優悠,不在乎法國由誰當政,後來親眼目睹魁儡政權維希法國卑劣囂張的行徑,遂改變主意援助法國地下主織逃亡美國。

海明威小說的情節原本是描述反抗當時做為美國「傀儡政権」的古巴政府,電影巧妙地將人時地物轉換成法國地下組織反抗德國占領下的法國 傀儡政府維琪法國。

世界大戰爭結束後,和平降臨法國的土地。戰前曾協助過納粹組織者遭到審判,與德國人交往的婦女以理光頭作為懲罰。
(本片政治宣導功能 : 維希法國不具法國合法政權)

The Train

故事時代背景是二次世界大戰末期,德軍眼看大勢已去,深黯藝術無價的德國指揮官Colonel Franz von Waldheim向希特勒說服這些被希特勒視為「頹廢藝術」(註)的畫作尚有「金錢上的價值」乃下令將一批法國名畫從博物館搬回德國去。

(事實上,電影要傳達的意念 : 這些可能被希特勒付之一炬的「頹廢藝術」,其實它的藝術價值比金錢價值多更多。)

然而負責駕駛這列火車的司機在嚴密監視下,仍跟法國鐵路局人員及地下游擊隊配合行動,用魚目混珠及瞞騙等種種方式跟德軍鬥智,力保國寶不致流出國境之外。




最後一幕是點睛之筆。
Burt Lancaster扮演的火車司機Paul Labiche,在擊斃德軍上校後,冷眼看了看那些散放在地上的標有高更、雷諾瓦、梵谷、馬內、米羅、塞尚、竇加等藝術巨匠名字的木頭箱子,然後轉身離去。

「We won’t waste lives on paintings ; Don’t you have copies of them?」
地下游擊隊原先不樂意配合,但最後還是為畫捐軀了。


(註)頹廢藝術,或墮落藝術,是納粹德國對不符合其思想意識形態的各類藝術的稱謂。 這些「頹廢」藝術品幾乎囊括了當時所有的現代派藝術作品。 他們大多被戴上猶太主義或布爾什維克主義的帽子而遭到當局的抵制和封殺。 封殺的手段包括將創作者解職,嚴禁其展覽和出售作品,某些情況下甚至嚴禁其從事創作。納粹時代,希特勒的個人審美取向成了指導一個國家全部藝術領域發展的法令界律。

Is Paris burning



《巴黎戰火》Is Paris burning 於1966年拍攝,本片講述1944年,二戰的優勢已經轉移到盟軍這邊,希特勒為了守住巴黎這最後的屏障,派一名將軍去巴黎督戰,並搜捕地下游擊隊,並企圖在盟軍收復巴黎之前炸掉、燒毀整個巴黎。

本片與The Train有異曲同工之妙,也是描寫巴黎的德國占領軍司令官違背希特勒炸毀巴黎的命令,暗地裡與盟軍合作,被視為等同文化遺產真蹟的巴黎得以逃過成為焦土的大劫難。

然而,被盟軍無差別轟炸下,柏林「博物館島」藝術品遭受嚴重破壞;日本城市化為灰燼 。



延伸聯想:平平是古蹟,大小漢哪耶差哈濟?

位於巴基斯坦南部的古蹟--摩亨佐-達羅(Mohenjo-daro),4000年前已有完善的上下水道工程,是印度河流域文明的重要古蹟,但因管理不嚴,許多被挖掘出來的古蹟被鄰近居民擅自帶回家當建材使用。

根據當地導遊的說法,這些將古蹟帶回將當建材的居民大多是巴基斯坦的窮困農民,因此有關單位對於為了要回古蹟而去損毀建築物也有所顧慮。

另,美國入侵伊拉克,傳出戰爭記者趁混侵入巴格達博物館想要竊取具歷史價值的高價古蹟而被捕的新聞。
任何一個時代,總不乏想要趁烽火亂劫瑰寶的精明傢伙。


It's the White man's war. Me, I refuse to go.
躲起來拒絕參戰的兒子因為父親被白人要脅,不得不出面被送到法國去作戰。
First the White men wanted our sons, now our rice.
村裡年邁的父執輩怨嘆白人又要兒子又要米。

被譽為「非洲電影之父」的塞內加爾電影工作者桑貝納(Ousamane Sembene)對於黑色民族在過去二、三百年來在白色帝國主義殖民統治下的歷史經驗,做了有系統的探討。

電影天神《Emitai》是他1971年的作品,講白色殖民者,摧殘壓榨農村的情形,劇情陳述,冷靜平淡,卻道盡強勢國家欺凌弱勢國家的本質。

隨著法國政權一分為二,法屬非洲也無法逃過波及。塞內加爾原先被維希法國所控制,戴高樂親自率領一支剛成立的「自由法國」部隊和英軍組成聯軍,在今天塞內加爾的達卡爾港登陸,進攻維希政府統治下的塞內加爾。

在電影尾聲,畫面出現家家戶戶的茅草房外貼著的「法國頭目」大頭照從7顆星的貝當換成2顆星的戴高樂,塞內加爾也隨即宣示效忠戴高樂的「自由法國」。

非洲人不管是誰掌握法國主權,法國還是法國,自己依然是沒有主權。

此前,塞內加爾一直是接收來自台灣的援助。
現在中國取代台灣成為對塞內加爾最大的投資者是,中國取得道路等大規模的基礎設施。

若問起街上販賣佈滿沙塵的盜版光碟的小販,「台灣和中國,哪一個好?」,小販可能回:「阿哉?只要帶來好康的,哪個都好,無差啦」。

現在的塞內加爾人民不清楚台灣與中國之間的關係,更別提二次大戰期間,分裂的法國的「維希和戴高樂」之間的關係。








2010年6月13日 星期日

失去記憶的恐怖

人はどう生きるべきか、人生の意味とはなにか。生とは? 死とは?
人為何活著?人應該如何生活?人生的意義是什麼?生是什麼?死是什麼?

――人の命はそんな疑問や懊悩とはまったく無関係に生まれ、翻弄され、そして消える。
人的生命,與這樣的疑問和苦惱毫無關係,就這樣被出生、被被捉弄,然後消失。


若い頃の一時期、哲学書を数冊かじっただけでいい気になっていた私は、そうした疑問に思いを巡らせ、答えを得ようとやっきになっていたことがある。
自分に人生の意味を問うには遅すぎる時がやってきて、ようやく少しだけわかってきた。


人の肉体はなぜ生きているのかなんて考えてはいない。
心と心臓は別の場所にあり、脳は精神の苦悩とは無慈悲なほどに無縁に、ひたすら機能的に動いている。


まぁ、しかたない――最近の私はひとりごとでそんな言葉ばかり口にしているのだが――しかたない。
生きられるだけ生きよう。いまはそう思っている。

記憶を失い、人格が崩壊してからの私が、生きていると言えるなら。
如果可以說丟失記憶,人格崩潰之後no我,生活著。

人の死は、心臓の停止した瞬間に訪れるのか、それとも脳が機能を失った時からなのか、その論争に関していろいろな話を聞かされてきたが、記憶の死はどうなのだろう。
記憶の死だってイコール人の死ではないのか。
人的死,是不是在心臟停止的瞬間才來造訪? 還是腦部機能尚失(腦死)能才開始?有關這方面的爭論已經聽了各種不同的意見,不過,記憶之死,又如何? 記憶之死,是否等於人之死?

記憶が消えても、私が過ごしてきた日々が消えるわけじゃない。
私が失った記憶は、私と同じ日々を過ごしてきた人たちの中に残っている。
不思議なものだ。頭は記憶を失っても、体には記憶が残っている。私にはまだ動く指がある。動かせるうちはだいじょうぶ。私はちゃんと生きているのだ。
自分の病気も、もう恐れはしなかった。私自身が私を忘れても、まだ生命が残っている。そのことを初めて嬉しいことだと思った。
記憶が消えても、私が過ごしてきた日々が消えるわけじゃない。

人的記憶消失,一路生活過來的日子並沒有因此消失。
我失去了的記憶,還留在日日與我一起生活的人們當中。
真是不可思議!頭腦失去記憶,但身體還殘留著記憶。我還有會動的手指。讓手指活動這件事還不成問題。我好好地生活著。
對於自己的病,已經不再畏懼。雖然我會忘記自己,但生命還留著。
我第一次對這件事感到高興。即是記憶消失,但我一路生活過來的日子並沒有因此消失。



以前介護研修の際、若年性アルツハイマー症を患った方の講演を聞かせてもらったことがあります。
その方も50代半ばで物忘れが酷くなり、病院に受診したところ若年性アルツハイマー症と診断されたそうです。
それまで、認知症やアルツハイマーなどは記憶障害や徘徊行動、妄想などといった症状を来し、本人は何をしたのか分からない状態というようなことしか想像していませんでした。
しかし、この講演を通して、記憶というものがいかに人間にとって大切なものかということを実感することが出来ました。 

記憶があるからこそ人は生きていくことが出来る。
行動するということは全て記憶を元に行うことができるため、次第に記憶を失っていくと、例えば「ご飯を食べる」という行動・行為をとっても、
箸の使用方法は?→ご飯をどのように食べるのか?
ご飯?→生きるために必要な栄養摂取?
ご飯を食べるために必要な道具の使用方法が分からなくなり、何故ご飯を食べなければならないのかという食事をする必要性というものまでもが失われてくるそうです。

正因為有記憶人們才能活下去。
所謂人的行動,完全根據記憶在進行,要是逐漸失去記憶的話,譬如「吃飯」這個行動·行為,筷子的使用方法?飯要怎麼吃?
米飯?→是為了存活必要的營養攝取?
失去記憶,意謂將會忘記吃飯所必需的道具的使用方法,為什麼非吃飯不可的理由,完全失去攝取食物的重要性的認知。



そして、何よりも怖いのが自分が過ごしてきた日々を忘れてしまうということです。
妻と旅行に行き、そこで感じた喜びも時間と共に消失してしまう。
妻は何も言わないが、自分が気づかないうちに妻に酷いことをしているんじゃないかとも感じるそうです。
でもこの方も今という瞬間を一生懸命に生きていました。
妻の支えがあり、共に生きている姿に涙した講演でした。


怖かったのだ。記憶を失ってしまうのが。記憶の死は、肉体の死より具体的な恐怖だった。
太恐怖了。失去記憶這件事。記憶之死,是比肉體之死,令人感到更具體的恐怖。

恐ろしかったのだ。記憶を失いつつあとことを他人に知られるのが。

よけいな涙は現実逃避だった。

人がものを忘れるのは、脳を活性化させるためである。
人は忘れることによって情報を取捨選択し、頭脳を新陳代謝させる。
忘れることがなければ、幸福も希望もない。
人的健忘,是為了讓腦部活化。
透過忘記,人們篩選資訊,讓頭腦新陳代謝。
如果無法忘記,也就沒有幸福和希望。


記憶の欠落が多くなるにつれ、私は以前より人の表情に敏感になった。
記憶の巨大な空洞の前でだじろぎ、傷ついたプライトと闘っている。
牢獄と化した肉体の中で精神が助けを求めているはずだ。
隨著記憶退化的加速,對於人的表情,我比起以前變的更敏感了。
在記憶巨大的空洞面前與jirogi,受傷了的puraito作戰著。
正在與成了牢房的肉體博取精神上的幫助。


アルツハイマーは単に記憶が損なわれていくだけの病気じゃない。人格も失われていくのだ。父もそうだった。温厚な人だったのに理由もなく怒り出したり、わけもなく人を疑うようになった。正月に帰ったときも、母や義姉が飯を出してくれないと、食器を片付けたばかりのテーブルの前で私に何度も訴えた。家に長くこもるようになってからは、目の光と、声の張りと、表情を失った。

施設に入るより自宅介護のほうが症状を抑制できると言われたにもかかわらず、父は急速に悪化していった。義姉に続いて孫たちを忘れ、私や兄や自分の亡くなった妹の名で呼びかける。他人だと思って鏡に映った自分に話しかける。病的な洗顔が治まったと思ったら、逆に入浴も着替えもしなくなり、大小便を垂れ流すようになった頃には、兄は昔の戦友になった。最後は母も忘れ、毎朝起きると、同じ部屋にいる母の顔を不思議そうに眺めて、「あなたはどなたですか?」と声をかけていたそうだ。

75歳で亡くなったときの直接の原因は、急性肺炎だったが、私は知っていた。もしあのまま体に不調がなかったとしても、数年後にはアルツハイマーによって命を奪われていただろうということを。父が発病したのをきっかけに知り得たことがいくつかある。そのひとつは、アルツハイマーが、死に至る病だということだ。言葉や思考に続いて体の機能も奪われていく。体が生きることを忘れていくのだ。


体が生きることを忘れていく、なんという症状だろうか、読んでいて恐ろしくなってしまった。意識があるうちから次第に自分の記憶が怪しくなり、最初は誰もが物忘れが激しくなったことを自分が歳を重ねてた性だと納得させたがる。それをアルツハイマー型認知症が原因です、という診断が自分に対して下されたときに、果たして受け入れることができるのだろうか?

この小説では若年性アルツハイマーということで診断された主人公はまだ50歳という若さである。古今、日本の長寿は世界に広く知れ渡ることとなっていて、人生80歳まで生きることはもはやノルマとされる。この主人公の男性は50歳というまだまだ現役で働いている自分の期待を裏切り、自ら決断、アルツハイマーという病を受け入れるまでの葛藤がリアルに描かれていて、こうまで人間という生き物が変わってしまうのかという現実に驚いた。

自意識が働いていて自分の記憶が曖昧なうちはいいけど、その意識の錯覚が自分の記憶のないところで起きだしたときに、アルツハイマーは患者周囲の介護する側への負担へと変わっていく。

長年一緒に暮らしてきた家族が変わっていく様を見るのは非常に辛いことであろう。ましてや、相手が人生を共に生きてきた自分を忘れて認識できなくなるときの悲しみは想像することができない。

他人に認識してもらいながら生きていくのが人というならば、家族という最も身近な存在から安心感を得ることができなくなる。それでもかつての記憶や一緒に暮らしてきた年月という愛の蓄積ゆえに介護を施す家族たちの心の葛藤は、現在の医療技術では完璧に治すことができないアルツハイマーと向き合っていくには希望が少なすぎる。

自分が絶対にアルツハイマーにはかからないという自信も大事だが、もしかしたら身近な家族の存在の中から患者が発生してしまうとも限らない。そのときのためにも万が一という知識を知っておくことは人々が毎日の生活を生きていく上で、自分を律するための手助けとなるであろう。

たとえ私の寿命がまだまだ続いたとしても、一緒にいられる時間がたくさん残されているわけじゃない。

大切なものを拾おうとするように、床を這ったまま割れた皿の破片と千切りキャベツをかき集めている枝実子の背中に、どんな言葉をかけていいのかわからず、私はずっと前から言おうと思っていたセリフを頭の隅から引っ張り出した。

「もういいよ、俺のことは。お前はまだ若いんだから、俺がいなくなってからのことを考えろ」

「何それ? 安っぽいドラマみたいなこと言わないで。言われる身にもなってよ。こっちには最終回なんかないんだから」

枝実子が声をあげて泣くのを聞いたのは、いつ以来だろう。たとえ病気でなくても覚えていないほど遠い昔のはずだ。


一緒にいられる時間がたくさん残されているわけじゃない、という意味を実感できるだろうか? たとえ生命上は生きていても全く他人を認識できなくなる。自分が知っている、または知っていた家族の一員が他人のように振舞う、自分たちを認識しなくなる。

一緒にいられる時間というのはアルツハイマー患者が記憶をなくしていく前の健康状態の内に、という意味なんだろうけど、当然患者本人は自分の意識がしっかりしているうちに、自分が自分でない状態になったときの家族側の対応を心配する。これが独りよがりの身勝手な決断に、この小説の主人公の妻は勝手に自分たちの生活空間を投げ出してしまった夫に対して怒りを顕にしたのだ。

まして私の場合、明るい未来はどこにもない。しかし、枝実子のことを考えるとそうも言っていられなかった。アルツハイマーの症状は、しだいに患者本人の苦痛ではなく、介護する人間の苦痛になっていくのだ。

このまま症状が進むと、記憶障害や随伴症状だけでなく行動障害が起こるようになる。例えば、徘徊。私の父の場合、これが酷く、母や兄や義姉は毎日のように道に迷った父を探し歩いていた。異食。味覚や臭覚が狂い、食べ物とそうでないものの区別がつかなくなる。石鹸を齧ったり、観葉植物を口に入れたり。本人は高級チーズや新メニューのサラダを食べているつもりなのだ。

失禁。排泄。10年前にはまだ大人用のおむつが今ほど普及していなかったから、父は母の縫ったサラシを使っていた。不潔行為。「汚い」という感覚が麻痺する。あるいは喪失する。入浴を嫌がったり、同じ服を着続けたり、排泄物を平気で掴んだり。考えただけで、体が震えてくる。つまり私が私でなくなっていくわけだ。私には自分が人ならざる怪物に変わってしまうように思えてならない。

「どうだ、今月中にでも、一度さ。次の土日は? 俺、ひさびさに丸々2日間休めるし。よさそうな場所を探しておくから」

「遊園地へ行くみたいな言い方しないでよ。私は嫌」

枝実子は意地になって首を振るが、排泄物を垂れ流し、それを異食しようとする私を見ても、やはり首を振ってくれるだろうか。



アルツハイマーや認知症というのはどうしてこんなに発生するようになったのだろう? 先進国特有の病気なのだろうか? 発展途上国のようなところでも発生しているのだろうか? 軽はずみなことはいえないにしても、どうも社会が、世の中が便利になりすぎて、人が歳をとってからの楽をしたい、他人に政府に面倒を見てもらいたい、甘えたい、寄りかかりたい、という生活態度などと関係しているように思えてならない。

自分が引退したら政府が面倒を見てくれるという制度などは、生活保障や税金という制度が始まる前には存在しなかった希望だろう。

そのような気持ちの上での油断が歳を重ねると共に主体的に生きることを自発的にしなくなりその結果脳細胞が加速度的に衰えていく、という気がしてしまうのである。

50歳からの人生をどのように生きるのか? 仕事を引退した後の積極的な自分の人生を創造できるか? この小説の中でも書かれていたけれど今の時代、精神年齢は実際の年齢の8かけ、というところが調度いいらしい。

40歳以降の人生を設計して生きていくことは我々現代人の選択肢が増えたことを喜ぶべきなのか、それとも自分の居場所を確立していくためのもがきの始まりなのだろうか?

記憶がいかに大切なものか、それを失いつつある私には痛切にわかる。記憶は自分だけのものじゃない。人と分かち合ったり、確かめあったりするものでもあり、生きていく上での大切な約束ごとでもある。

「多幸表情ですね。アルツハイマーの特徴のひとつです。どうしてああいう表情になるのかは、先生方にも確かな理由はわからないそうです。不思議ですよね。あの方、しっかりしているのはほんの短い間だけで、普段は自分が嫁入り前の大切な体だって言って、ヘルパーたちが排泄介助をしようとするだけで騒ぎ立てるのに。あの顔をみていると嘘のようです」

老婆の患者服の下半身はおむつの形に盛り上がっている。介護スタッフではないらしい事務係長だというこの中年女性はどこまで理解しているのだろう。私にはなんとなくわかる。

老女は笑った顔の下で泣いている。つかのま現実に目が覚めたときには、記憶の巨大な空洞の前でたじろぎ、傷ついたプライドと闘っている。牢獄と化した肉体の中で精神が助けを求めているはずだ。

記憶が消えても、私が過ごしてきた日々が消えるわけじゃない。私が失った記憶は、私と同じ日々を過ごしてきた人たちの中に残っている。

記憶というと誰もが主体的に捉えてしまいがちだが、客観的な自分に対しての記憶というものは自分が消えてしまっていくときの、楽観的な希望かもしれない。

確かユダヤ人の教えだったと思う。「お前は自分が生まれてきたときに周りの多くの人が微笑み、お前一人泣きじゃくっていたんだよ。だから、今度お前が自分の人生を全うして死ぬときには、自分は微笑んで周りの多くの人が悲しむような人生を送りなさい!」

現在、認知症患者は、右肩上がりで増えています。昔と今のライフスタイルや、食習慣が変わってきている、ということも影響しているのだと思いますが、今後も患者は増え続けると思われます。高齢者世帯(高齢者が世帯主の世帯)を分母にすると、認知症の人は今、6世帯に一人くらいですが、一番人数が増えると予想されている27、28年後には4世帯に一人くらいの割合になります。決してまれなものではなくなってきていますし、早く診断、発見できれば決して怖いものではありません。そういうことをきちんと理解した上で、自分の健康管理をしっかり行う。

そして、病気とどういうふうに付き合っていけばいいのかを考えていく時期が来ていると思います。(本間昭精神科医)





人はなぜ生きるのか、
Neprilysin
多倒垃圾免得老年痴呆——阿滋海默症新研究(林彥宏 文)

##HIDEME##