Nagoya、Kobe、Himeji、Gifu、Awaji yumebutai

2010年8月23日 星期一

できれば所在不明のままでいてほしい

足立区で都内最高齢とされる男性がミイラ化した遺体で発見された事件は、当初、奇妙奇天烈奇々怪々な事件として報じられた。
 なにしろ相手がミイラだから。

 111歳(←生きていれば)という年齢も驚きだったし、遺体が30年を経たものであるらしい点も特異だった。家族によれば、本人は30年以上前のある日「即身仏になる。絶対に開けるな」と言い残したきり、部屋から出てこなくなったのだそうだが、その証言の真偽も含めて、当件はどこまでも素っ頓狂だった。

 だから、世間の人々も、第一報を聞いた段階では、誰もが特殊な家庭に起こった例外的な事件だというふうに受け止めていた。私もだ。どうにも浮世離れしていると思った。猟奇的に見える半面、牧歌的な感じもある。お伽話みたいだ。昭和拾遺物語。ワンスアポンアタイム・イン・アダチク。

 ところが、同じ事件について、年金の不正受給の疑いが報じられると、コメンテーターの論調はガラリと変わった。夢が醒めたみたいなぐあいに。なるほど。カネの匂いはすべてを消臭する。物語りっぽさも。
 で、ニュースは、類似の事案を導き出す端緒となった。新たなミイラを召喚したのではない。別の遺体が発掘されたのでもない。所在が確認できない高齢者の記録が、全国で見つかったのである。それも、百歳を超える幻の高齢者たちの、行き先を辿れない書類が。続々と、だ。
 彼らはどこへ行ったのだろうか。
 ニュースショーの司会者は、お盆からこっち、毎日びっくりしていた。
「本当にこれはいったいどういうことなのでしょうか」

 私は、正直に申し上げて、さほど驚かなかった。
 実際にご老人が消えたわけではないからだ。誰にだってわかることだ。彼らは消えたのではない。ただ、所在が確認できていない。それだけの話だ。
 というよりも、有り体に言って、書類上の処理が滞っているということ以上でも以下でもないのだ。
 とすれば、これは大いにありそうな話ではないか。
 私だってしょっちゅう行方不明になる。

「オダジマさんはいません」
「いない? どうしてだ? なぜ消えるんだ?」
「知りません。何度連絡しても不在です」
「携帯は?」
「不通です」

 そう。電源を切れば良いのだよ。簡単な話だ。
 で、鎖切った男(←「腐り切った男」by Atok)として午後の町をさまよう。必要な時間だ。こうしておいた方が何かと都合が良いのだ。私と、私を捜す側の人々の双方にとって、真相は電波の届かない場所に放置しておいた方が万事丸くおさまる。そういうものなのだ。

 ご老人の遺族もまた多くの場合、ご老人だ。百歳超ということになれば、息子や娘だってすでに後期高齢者だ。すべての手続を遺漏なくこなせるとは限らない。百老百態。様々な事情がある。お役所の窓口だって、ある程度年齢の行った人間に対しては、そんなにせっついた対応はしない。納税も期待できないわけだし。であるならば、多事多端な日常の中で記録だけが生き残っていくという事態は十分に考えられる。

 死亡届は出ていないものの、確たる生存確認には至っていないケース。こういうグレーゾーンは、ある確率で必ず発生する。しかも、こういう玉虫色の記載事項については、役所によって扱いが違う。税務署はどこまでも執念深く標的を追うだろう。彼らはハンターだから。

 しかしながら、そのほかの役所は必ずしも追跡者ではない。ハイエナでもない。住民基本台帳を扱う係のお役人はずっと鷹揚だ。鷹揚。ハゲタカの旋回とは違う。その他、転出届や転入届や死亡届や行方不明者の捜索願を受け付ける係の人々もそれぞれにそれぞれな仕事をしている。すべてのお役人が同じ解釈で動いているとは限らない。誰もがハゲタカ基準で働いているわけではない。当然の話だ。

が、「消えた老人」の話は、メディアにとって格好のフックになった。
 話題として使い勝手が良いからだ。

 たとえば、「家族の絆の希薄化」「地域共同体の崩壊」ぐらいな話題に持ち込むための導入部として扱えば、コーナーをちょっとセンチメンタルな方向に誘導することができる。夕方の時間帯のニュースに不可欠な湿度をもたらすための蛇口みたいなニュース。逃す手はない。

 「戸籍制度の盲点」「役人の怠慢」「税金の無駄遣い」というおなじみの方向に持って行くテもある。画面を指さしてズバッと指摘すれば一丁上がり。なあに手慣れた仕事ですよ。
 どっちにしても語り手は当件をとっかかりに、お手軽な社会批評を展開することができる。とすれば、こんな素敵なネタはない。着地点は「いやはや大変な世の中になりましたね」ぐらい。どうにでもなる。そうやって慨嘆していればQシートは埋まる。次はスポーツです。つなぎのニュースとしては完璧だ。ちょっと湿っぽくて懐かしい昭和のエートスを感じさせるトピック。

 役人の怠慢を責めるのはたやすい。
 でも、実際の話、事件後二週間を経て、二百数十人の所在不明老人が発覚したのだといって、これは「異常事態」なのだろうか。私には極めて自然ななりゆきであるように思えるのだが。だって、三百人弱ですぜ。何千万人のうちの。ほんの端数ではないですか。

 日本の戸籍制度は世界でも類を見ない精密なシステムだと言われている。
 国民の出生や死亡や現住所や婚姻の有無や相互の血縁関係について、わが国の役所は、非常に正確な情報を把握している。少々行き過ぎではないかと思う程だ。たとえば、中南米や東南アジアの諸国の中には、そもそも戸籍そのものが存在していない国があったりする。住民台帳に似たものがあっても、そこに記載されているデータは必ずしも正確でない場合が多い。中国にしてもそうだ。都市部には膨大な数の無戸籍者が流入している。正確な数は把握できない。把握していないものの数は数えることができない。統計化することもできない。当たり前だ。

 その点、わが国の戸籍謄本には、まったく逃げ場所がない。どこに引越しても、お上にはすべてがお見通しだ。われわれは金魚鉢に似た環境で暮らしている。透明性。誰のための、だ? そのくせ、うっかり電話料金を滞納すると、その日のうちに回線が遮断され、都市生活者はいきなりロビンソンクルーソーになる。住民票の移転を怠っただけで住所不定の扱いを受ける。と、彼はもう市民ではない。金魚鉢を飛び出した金魚。野良犬より始末に負えない。野良金魚。息もできない。なんということだろう。

 今回の非実在後期高齢者続発事案は、あくまでもレアケースだ。
 うちの国のがんじがらめな住民台帳システムにも、若干のアナがあったということに過ぎないからだ。
 とすれば、これはむしろ慶賀すべきことではなかろうか。少なくとも私はほっとしているが。

 1980年代のはじめ頃、私は、学校を出てはじめて勤めた会社を八カ月で辞めた。で、退社に伴って、大阪の豊中というところから住民票を東京に戻した。と、ほどなくその豊中市からハガキが届いた。住民税を納めていなかったからだ。

 ふむふむと思って放置していると、しばらくして、より脅迫的な文面の督促状が郵送されてきた。そこには納税が市民の義務である旨と、滞納を続けると延滞金が課せられるという意味のことが書いてある。なるほど。私はその督促状をさらに暫時放置してみた。

 と、敵は一段と脅迫的な文面の督促状を送ってくる。今度は差し押さえを示唆している。期日までに所定の金額が振り込まれなかった場合、われわれは強制的な措置に踏み切るであろう、と。肝心なところは赤字の太字で書かれている。しかも下線入り。やるじゃないか豊中。

私はちょっと盛り上がった。
 なんだか権力と対峙している気持ちになったのでね。
 豊中税務署の署員は、たかだか2万円ばかり(←記憶では延滞金コミで2万数千円だった)の市民税を取り立てるために、本当に出張してくるのであろうか。交通費にさえならないんじゃないのか?

 で、事情通の友人に相談してみた。どうだろう。これって放っとけばテキも諦めるんじゃないか、と。
 答えは

「さっさと払えよバカ」

 の一言だった。
 問題は徴税人がやってくるか否かではない。差し押さえが実行されるのかどうかでもない。一旦確定した税額は絶対に逃れられない。そこのところが理解できない人間は一生涯マトモな社会人になれない。だから払えと言うのだ。ぐだぐだ言ってないで。

「税務署っていうのは、警察以上にマジな全国組織だぞ」

 とそいつは言っていた。税務署は地域ごとに細かく区割りされているように見える。が、横の連絡は完璧で、どこに逃げても、どこに引越しても、彼らは地球の果てまで追いかけてくることができる。絶対に逃れることはできない。あのルパン三世でさえきちんと青色申告をしている。だからお前も払え。宇宙人じゃないんだから。

 税務署のネットワークは住民基本台帳のすべてに及んでいる。だから、どこからどこに何回転出しても彼らにはすべてがわかっている。決して逃げることはできない。

 とはいえ、税務署とて、収入の無い人間は追跡しない。
 そういう人間はネグレクトされる。

 羊飼いは乳を出す羊の数を決して間違えない。必ず正確な数を把握している。毛を刈る羊の顔も間違えない。常に明確に記憶している。でも、乳を出さなくなった羊や、毛を刈ることのできなくなった老いた羊の数は把握していない。というよりも、そういう羊は既に肉になっている。ということはつまり、いまはもうこの世には居ない。だから数える必要もないし数えることもできない。どうせ骨なわけだから。

 お国も同じだ。
 お役人は、乳を出さず、羊毛を生まない国民の数を数えることに、情熱を持っていない。きわめて自然なことだ。肉にしないだけ温かみがあると考えるべきなのかもしれない。

 今回の報道のあおりを受けるカタチで、各地のお役所がご老人の所在確認をはじめるようだ。
 なるほど。なんだかとても鬱陶しいことになる予感がする。
 藪を突ついて蛇を召喚する結果にならなければ良いのだが。

 だって、テキはお役人ですよ。一筋縄ではいかない。そう考えなければならない。
 役人に仕事を与えるということは、彼らの自己保存に協力するということにほかならない。
 しかも、この仕事は、9割以上が無駄足になることがはじめからわかっている。そういう仕事だ。

 無駄足。すなわち彼らの主たる業務だ。というよりも、無駄足や無駄口こそが彼らの飯のタネなのだ。

で、無駄足のついでに、お役人衆はどうせ余計なものを見つけてくる。
 所在不明高齢者のための生活維持基金機構の設立準備委員会だとか、所在確認事業の経費を算出するための新たな人員の確保だとか、そういうSFみたいなことを言い出す……ようなことは、いくらなんでも無いだろうが、それでも、彼らが動いた分だけの人件費は当然お国なり地方公共団体が負担しなければならない。

 消えた年金の時もそうだったが、官僚にとって、怠慢はひとつの事業だ。今日の怠慢が明日の仕事を生む。そういう構造で、彼らの組織は動いている。事実、年金が「消えた」ことは、新たな業務(年金追跡事業)を生んでおり、おかげで、彼らの組織は一時的にであれ、延命し、焼け太りし、商売繁盛している。

 老人は放っておけばよろしい。
 むしろ、対象者の顔を検分する必要があるのは、児童相談所に通報のあった事例についてだと思う。
 ま、話は別だけど。
 とにかく、関係者のアリバイのために不在者の出欠をとったところで何の意味もない。
 居ない人間の出席をとることはできない。

 ひとつ思い出した。
 非実在高校生の出欠についてのエピソードだ。

 今から30数年前、私が通っていた当時の都立高校では、「代返」という習慣が横行していた。今でもあるのかもしれないが。

 教師が出席をとる時に、「代理」で「返事」をするから、「代返」。むろん、不正行為だ。が、出来の良くない高校生が安全に授業をサボるための相互扶助策として、代返はとにかく流行していたのである。

 理系と文系をコース分けしていなかった私の高校では、生徒の受験科目に配慮して、出欠確認そのものをオミットしている教師が何人かいた。物理の先生がそうだった。私立文科系志望の生徒に物理の授業への出席を強要するのも気の毒だと、そういうふうに考えてくれていたのだと思う。その配慮がわれわれの未来にとって良かったのか悪かったのかは、簡単には判断できない。が、とにかく当時の私にはありがたかった。

 ほかの教師も、出欠の確認にはさほど熱心ではなかった。多くの教師は明らかに代返とわかる場合でも、適当にスルーしてくれていた。まあ、大人の対応ということだったのだと思う。

 が、一方には、頑として出欠にこだわる先生もいた。たとえば、世界史の先生がそっちの組の代表だった。信念があったのだと思う。
 彼は、名簿順に名前を呼んで返事を確認するだけでは満足しなかった。教卓に常備してある座席表を見て生徒の名前を呼び、一人一人顔を確認ながらその返事を確認していた。これでは逃れようがない。代返なんかとても無理だ。

 でも、抜け道はあった。天上から垂れる蜘蛛の糸の如き細い道が。
 ある生徒(←岡康道だが)が、座席表を偽造するテを思いついたのだ。

 世界史の授業が近づくと、岡は、自分の名前を抹消した自作の座席表を教卓にある本物の座席表と差し替える。ついでに机と椅子もベランダに運び出して、そのままどこかに消えてしまう。と、教師がいくら執拗に顔を確認しながら出欠を確認しても、そもそも名簿に名前が無いのだからして欠席が発覚することもあり得ない。

 なんという素晴らしい生活の知恵。
 でも、勝利は長続きしなかった。追随者が2人3人と増え、4人7人と増殖するにつれて、教室の人口密度が明らかに不自然な空虚さを醸しはじめたからだ。

で、無駄足のついでに、お役人衆はどうせ余計なものを見つけてくる。
 所在不明高齢者のための生活維持基金機構の設立準備委員会だとか、所在確認事業の経費を算出するための新たな人員の確保だとか、そういうSFみたいなことを言い出す……ようなことは、いくらなんでも無いだろうが、それでも、彼らが動いた分だけの人件費は当然お国なり地方公共団体が負担しなければならない。

 消えた年金の時もそうだったが、官僚にとって、怠慢はひとつの事業だ。今日の怠慢が明日の仕事を生む。そういう構造で、彼らの組織は動いている。事実、年金が「消えた」ことは、新たな業務(年金追跡事業)を生んでおり、おかげで、彼らの組織は一時的にであれ、延命し、焼け太りし、商売繁盛している。

 老人は放っておけばよろしい。
 むしろ、対象者の顔を検分する必要があるのは、児童相談所に通報のあった事例についてだと思う。
 ま、話は別だけど。
 とにかく、関係者のアリバイのために不在者の出欠をとったところで何の意味もない。
 居ない人間の出席をとることはできない。

 ひとつ思い出した。
 非実在高校生の出欠についてのエピソードだ。

 今から30数年前、私が通っていた当時の都立高校では、「代返」という習慣が横行していた。今でもあるのかもしれないが。

 教師が出席をとる時に、「代理」で「返事」をするから、「代返」。むろん、不正行為だ。が、出来の良くない高校生が安全に授業をサボるための相互扶助策として、代返はとにかく流行していたのである。

 理系と文系をコース分けしていなかった私の高校では、生徒の受験科目に配慮して、出欠確認そのものをオミットしている教師が何人かいた。物理の先生がそうだった。私立文科系志望の生徒に物理の授業への出席を強要するのも気の毒だと、そういうふうに考えてくれていたのだと思う。その配慮がわれわれの未来にとって良かったのか悪かったのかは、簡単には判断できない。が、とにかく当時の私にはありがたかった。

 ほかの教師も、出欠の確認にはさほど熱心ではなかった。多くの教師は明らかに代返とわかる場合でも、適当にスルーしてくれていた。まあ、大人の対応ということだったのだと思う。

 が、一方には、頑として出欠にこだわる先生もいた。たとえば、世界史の先生がそっちの組の代表だった。信念があったのだと思う。
 彼は、名簿順に名前を呼んで返事を確認するだけでは満足しなかった。教卓に常備してある座席表を見て生徒の名前を呼び、一人一人顔を確認ながらその返事を確認していた。これでは逃れようがない。代返なんかとても無理だ。

 でも、抜け道はあった。天上から垂れる蜘蛛の糸の如き細い道が。
 ある生徒(←岡康道だが)が、座席表を偽造するテを思いついたのだ。

 世界史の授業が近づくと、岡は、自分の名前を抹消した自作の座席表を教卓にある本物の座席表と差し替える。ついでに机と椅子もベランダに運び出して、そのままどこかに消えてしまう。と、教師がいくら執拗に顔を確認しながら出欠を確認しても、そもそも名簿に名前が無いのだからして欠席が発覚することもあり得ない。

 なんという素晴らしい生活の知恵。
 でも、勝利は長続きしなかった。追随者が2人3人と増え、4人7人と増殖するにつれて、教室の人口密度が明らかに不自然な空虚さを醸しはじめたからだ。

できれば所在不明のままでいてほしい

2010年8月15日 星期日

假像真實

僕達が見て聞いて嗅いで触っていると思っているこの世界は
すべて僕達の脳の中で形作られたものだ
そこにあるものがそのままここにあるわけでもここに伝わるわけでもない
我們活在這個現實的世界
卻不是見聞感知到現實本身
我們所見、所聽、所聞、所感觸到的這個世界
全都是在我們的腦中形成的
換句話說,
我們所見、所聽、所聞所感觸到,並非現實本身的面貌

僕がはなしてるのはきわめて単純明快な つまり科学的な話だ
宗教がかった話でも精神論でもない
例えば君は今僕を見て僕の声を聞いているが
それだって僕の姿そのものでも
僕の声そのものでもない
視覚も聴覚も臭覚も
あらゆる知覚はただの信号として脳に送られるだけだ
脳は送られた記号を組み合わせることで
現実らしきものを
頭の中に再構成するわけだ

我不是在談你所喜歡的所謂的心裡學,
那個與其說是科學,不如說是文學。
我講的是極其簡潔明快的科學性的理論,
既不是宗教宣言也不是精神論,
譬如說,你現在看到我、聽到我的聲音,
但都不是我本人的身影和聲音,
視覺、聽覺、嗅覺,
所有的知覺都是作為傳送到大腦的訊號
透過大腦將接收到的各種訊號重新組合後,
在腦中再次構成你看到的世界。

再構成されたものが知覚であり
知覚していることを認識するという反応こそが意識だ
僕達が知ることの出来る世界はすべて脳という御問屋が
専売で卸した断片的情報によって組み上げられたものにすぎないんだ
そこで、じゃこのお問屋が
まがいものの情報を売りつけてきたとしょう
さて 僕らはそれを偽物だと判別することが出来るだろうか?
絶対に見分けはつかないのだよ 関口君

這再次重新組合的東西,就是知覺。
認識到這種知覺的反應,就是意識。
我們知道的這個世界,
不過是由叫做大腦的這個批發商,以專賣方式收集零碎的資訊而重新組合而成的。
要是大腦這個批發商想要賣給我們一些荒誕不羈的資訊,
我們是否有能力判斷資訊的真偽?
我說絕對分不清楚的。

脳のほかに
内なる世界の構成要素を販売してくれる問屋はないのだ
本物だろうが偽物だろうが
僕ら自身に判定することは出来ないんだ
仮想か 現実か
現実もまた仮想なのだからね
主観において嘘と真実の区別はないのさ
体験も記憶もあてになりはしない

除了大腦之外,再也沒有賣給我們這世界構成要素的批發商了。
是真?是假?只有告我們自己去判斷了。
是假想?是現實?是現實?還是假想?
在主觀上是沒有虛偽與真實的區別,
經驗與記憶也都不可靠。

だから僕らは外部記憶に頼ってそれを判定しようとする
つまり客観的な観測と記録だな
しかしだ 例えば量子力学という新しい学問がする
この学問によると 微細な世界では
観測者が観測した時点で
観測対象は変化してしまうのだそうだ
それは客観は成り立たないということだよ
まあ 当たり前と言えば 当たり前のことだが
量子力学が予想させるある結論というのはこうだ
「この世界は過去も含めて」
観測者が観測した時点で遡って生成された

因此,我們只好靠外部記憶來判斷真偽,也就是客觀的觀測與記錄。
但是呢,比如有一門叫量子力學的新科學,
根據這門科學在微觀世界,
在觀測者觀測的當下,觀測的對象已經發生變化,
也就是說客觀並不成立。
雖說這是理所當然的事,
量子力學讓我們想到的結論就是,
「這個世界包括過去」,都是觀測者在觀測的當下回朔過往所形成的。

君は徳川家康の存在を信じるか?
信じるんだな
しかし君は家康に会ったことはないはずだぜ
ではなぜ君は家康を知っているのか
それは記録が残っているからだろう
じゃあ この本に出ているような 妖怪変化の存在も
君は信じるのか?
記録に残っているということにおいては
この化け物どもだって家康に引けを取らないぜ
これは姑獲鳥うぶめだ

你相信德川家康的存在嗎?
你應該相信吧!
但,你未曾見過德川家康,那麼為何你知道他?
那是因為有記錄留存。
那麼這本書裡寫的妖魔鬼怪的存在,你也相信嗎?
所謂留有記錄,說明妖怪也不比家康遜色
這是「姑獲鳥」。

古くは「今昔物語集」から最近の民族学文献にいたるまで
こいつは頻繁に記録されている
これは柳の下に現れて
子供を抱いてくれとせがむ女の化け物だ
しかし これは 「姑獲鳥こかくちょう」と
まあ 一般には「産む女」と記すんだがね 当て読みだ
姑獲鳥というのは中国の魔物だよ
鳥と化して赤ん坊をさらいに来る

從遠古的「今昔物語集」到現代的民族學文獻記載
它都頻繁的登場
「姑獲鳥」出現在柳樹下
是求你抱她的嬰兒的女妖怪
但,難道這個就是「姑獲鳥こかくちょう」
一般
會寫「生產的女人産む女」,借音字罷了
「姑獲鳥」是中國的妖怪,化作鳥來誘拐他人嬰兒。

赤ん坊をさらう?
そう さらう
我が国のウブメは預ける正反対なんだが
どういう訳か 混同されてしまった
「和漢三歳図絵」あたりではすでに混同されてるね
「百物語評判」なんかではこう記されている
「産の上にて身まかりたりし女その執心 このものとなれり」
「その形 腰より下は血にそみて」
「その声 をばれう をばれうと 鳴くと申しならはせり」
どうも夢うつつだなあ 何か見えたのか?

日本的ウブメ正好相反,妖怪會要你抱她的小孩,但不知怎麼回事,兩者往往被混為一談
像什麼和漢三歲圖繪早就混淆了
百物語評判是這樣說的
死於難產的女人其幽怨化作本身,其形染做腰身下血,其聲化作哀鳴纏繞不離


この世には不思議なことなど何もないのだよ 関口君
這個世界上沒有什麼稀奇古怪的事情

妹:この偏屈兄貴は人を煙に巻くのが生きがいですから

ウブメは俗に お産で亡くなった女性の幽霊だとよく言われています。 だが、違う。 これは「お産で死んだ女の無念」という概念を形にしたものです。 しかし、死んだ者に無念などない 生きている人間こそが 「さぞ無念だったろうな」などと考えるのです。 あやかしの形を決定するのは生きている人間 すなわち「あやかしを見る方なのだ」と僕は定義します。
人間の脳は目で見たことを自分の都合のいいように変えてしまうことが有る
エゲレス語でバーチルリアルティ仮想現実 あくまで僕の考えですが

石燕之所以把姑獲鳥寫成這幾個字果然還是依據了和漢三歲繪圖, 不過
和漢三歲繪圖寫的那幾個字不是那樣發音的, 鳥是鳥呀, 而且西鶴的好色一代女, 寫的也是主人翁被姑獲鳥所惱但這裡是嬰兒,被拖胎掉的嬰兒們排成一列訴說忿恨, 你不是主張姑獲鳥是難產而死的女子的幽靈的嗎?

世間都說姑獲鳥是難產死去的女人的幽靈
但不是
這只是將
“姑獲鳥是難產死去的女人的幽靈“概念化了
但,往生者是沒什麼幽怨可言的
只不過是活著的人想 大概感覺很幽怨吧
將這說成一種鬼怪形態的 是活著的人
我的定義即是--人為視作鬼怪
哲学などではありません 科学です。
你說的好哲學啊
不是哲學,是科學


なんでも「おしょぼ(讃岐でいう死亡した子供の妖怪)憑(つ)きの筋)」 だそうで 筋:plot(物語・小説・劇などの) 憑き物筋とは憑き物を操る家系という意味だ 民族社会におけるいわゆるひとつの装置 共同体に不可解な出来事が発生した場合の解決手段として設定されている装置だ 記憶がさたか 定か:はっきりしているさま 御伽草子(おどきぞうし)の陰陽師のように 氏子(うじこ)でも禰宜(ねぎ)でもない者を神殿には入れられん

意味のない存在に意味を持たせ 価値を見出す言葉が呪い(のろい)だ 「脳に仕掛ける時限爆弾」みたいなものさ

讓沒有意義的存在讓它產生意義,且找出有價值的語言,就是咒語
說起來就像「安裝在腦子裡的定時炸彈」一樣。

人を呪わば穴二つ愉快なもんじゃない

「父無し子」ててなしご
1.父親に死なれて、母親の手で育てられた子。ててなしご。
2.父親のわからない子。私生児。ててなしご。

仏教は愛という観念は
捨てるべきだと説いている
愛すなわち執着と言い換えることが出来るからね
あらゆる執着を捨てることが唯一の解脱(げだつ) 如来(にょらい)へ至る道なんだ

君の脳は見ることを拒否した 心の求めるに応じて 現実を都合のいいようにねじ曲げだんだ 我々が今 見て聞いて 体感していることの世界は 決して現実のそのままじゃない それぞれの脳が選択した単なる情報の再構成だ 我々皆 脳というものがつ作り上げた  ある種の結界に囚われているのだよ

我們的大腦會去拒絕看到的東西
為了迎合內心的需求,將現實的世界扭曲成對自己有利的情境
現在我們所見所聞所感的這個世界
並不是現實世界所顯現的那樣
Virtual Reality
而是每個人的大腦在各取所好下各種單一資訊而重新建構而成的
所以我們每個人,其實都被囚禁在大腦所佈下的某種結界裡。

扉を開けたら死体がある捜すも蜂の頭もあったもんじゃない
耳は閉じることが出来ない
だが声だけが聞こえないこともある
不可能關上耳朵 但是聽不進的時候
所以你睜開眼睛

人類的大腦往往會將眼睛看到的事物曲解成對自己有益的情境

想用懷孕逃避丈夫死亡的事實
你當然有不想承認它存在的理由


2010年8月8日 星期日

選舉前

一個小女孩問她的父親,「所有的童話故事一開頭都是:從前~從前.....嗎?」

爸爸回:「不,有些童話一開頭是- 如果我當選....」


政客的名聲,一半是被是【謊言】給毀了;另一半則是被【真相】給毀了....


政治家(statesman)剪羊毛;政客(politician)扒羊皮


只有英文才能將政治politics」這個字的背後含義描述得如此精準,拉丁語裡「poli」意思是【許多】,而「tics」指的是【吸血的怪物】。


政客的誠信像氧氣,位置越高,稀薄。


為什麼政治領導人似乎直到他們寫回憶錄時,才得到解決問題的答案?

政治家告訴你真相,即使你不喜歡;政客告訴你會讓你爽的事,即使可能不是事實。


政治是一種幻術,讓人聽起來彷彿今年聖誕老人來得早。


所謂政客,就是主張他認為選民聽了會爽的事


一位神父來到墓園,看到某個墓碑上刻了這麼一句話:「一位真誠的男性政治家長眠於此」,
說:「這不尋常,一個墓地竟然埋了兩個人。」

問:在路上掉了200元。撿到錢的人是幼稚園的小朋友?誠實的政治家?還是聖誕老公公?
答:是幼稚園的小朋友。其他兩個選項都不存在。


一輛載滿政客的巴士開到鄉間小路。
車子突然打滑撞到牧場的一棵大樹。
一位老人目撃這場交通意外,然後來到事故場。
隨後老人挖了一個大洞將所有的政客給埋了。
數日後,警察來到事故現場調查巴士,並詢問老人:
「他們全都死了,連一個都沒存活下來?」
老人答:
「聽說有幾個人還活著,但,政客說的話能信嗎?」



執政成績表現好,不過善盡職守,手本分罷了。
若不幸無法獲得連任的機會,只能說「銘謝惠顧,下次再來」,
何來虧欠?何來委屈?

再完備的交通制度,也要有遵守交通規則的駕駛員配合;
再完美的初選制度,也要有輸的起的黨員相挺。

與其幫支持的政黨開處方箋,不如以客觀的評價標準來檢驗每個黨員。


日本就有選舉前這個網站,提供選民無法在媒體清楚得知的各政黨與各候選人的思想與政積。

另外,就【絕對日本國家利益】的立場,公開賣國度與愛國度評量表,從最賣國的-10到最愛國的+10評量,各政黨與候選人的愛國度做為選民投票的參考。

希望台灣的網站也能架構出各個政治人物對爭議性議題所採取的態度,對照評分標準,採點給分,多一點事實評價,少一點感情用事。


2010年8月3日 星期二

有七件事會摧毀社會

印度聖雄甘地(Mahatma Gandhi)認為有七件事會摧毀社會:

一,富裕但不勞而獲。
二,逸樂但失去良知。
三,知識但欠缺品格。
四,買賣但沒有道德。
五,科學但毫無人文。
六,宗教但不懂犧牲。
七,政治但放棄原則。

##HIDEME##