足立区で都内最高齢とされる男性がミイラ化した遺体で発見された事件は、当初、奇妙奇天烈奇々怪々な事件として報じられた。
なにしろ相手がミイラだから。
111歳(←生きていれば)という年齢も驚きだったし、遺体が30年を経たものであるらしい点も特異だった。家族によれば、本人は30年以上前のある日「即身仏になる。絶対に開けるな」と言い残したきり、部屋から出てこなくなったのだそうだが、その証言の真偽も含めて、当件はどこまでも素っ頓狂だった。
だから、世間の人々も、第一報を聞いた段階では、誰もが特殊な家庭に起こった例外的な事件だというふうに受け止めていた。私もだ。どうにも浮世離れしていると思った。猟奇的に見える半面、牧歌的な感じもある。お伽話みたいだ。昭和拾遺物語。ワンスアポンアタイム・イン・アダチク。
ところが、同じ事件について、年金の不正受給の疑いが報じられると、コメンテーターの論調はガラリと変わった。夢が醒めたみたいなぐあいに。なるほど。カネの匂いはすべてを消臭する。物語りっぽさも。
で、ニュースは、類似の事案を導き出す端緒となった。新たなミイラを召喚したのではない。別の遺体が発掘されたのでもない。所在が確認できない高齢者の記録が、全国で見つかったのである。それも、百歳を超える幻の高齢者たちの、行き先を辿れない書類が。続々と、だ。
彼らはどこへ行ったのだろうか。
ニュースショーの司会者は、お盆からこっち、毎日びっくりしていた。
「本当にこれはいったいどういうことなのでしょうか」
私は、正直に申し上げて、さほど驚かなかった。
実際にご老人が消えたわけではないからだ。誰にだってわかることだ。彼らは消えたのではない。ただ、所在が確認できていない。それだけの話だ。
というよりも、有り体に言って、書類上の処理が滞っているということ以上でも以下でもないのだ。
とすれば、これは大いにありそうな話ではないか。
私だってしょっちゅう行方不明になる。
「オダジマさんはいません」
「いない? どうしてだ? なぜ消えるんだ?」
「知りません。何度連絡しても不在です」
「携帯は?」
「不通です」
そう。電源を切れば良いのだよ。簡単な話だ。
で、鎖切った男(←「腐り切った男」by Atok)として午後の町をさまよう。必要な時間だ。こうしておいた方が何かと都合が良いのだ。私と、私を捜す側の人々の双方にとって、真相は電波の届かない場所に放置しておいた方が万事丸くおさまる。そういうものなのだ。
ご老人の遺族もまた多くの場合、ご老人だ。百歳超ということになれば、息子や娘だってすでに後期高齢者だ。すべての手続を遺漏なくこなせるとは限らない。百老百態。様々な事情がある。お役所の窓口だって、ある程度年齢の行った人間に対しては、そんなにせっついた対応はしない。納税も期待できないわけだし。であるならば、多事多端な日常の中で記録だけが生き残っていくという事態は十分に考えられる。
死亡届は出ていないものの、確たる生存確認には至っていないケース。こういうグレーゾーンは、ある確率で必ず発生する。しかも、こういう玉虫色の記載事項については、役所によって扱いが違う。税務署はどこまでも執念深く標的を追うだろう。彼らはハンターだから。
しかしながら、そのほかの役所は必ずしも追跡者ではない。ハイエナでもない。住民基本台帳を扱う係のお役人はずっと鷹揚だ。鷹揚。ハゲタカの旋回とは違う。その他、転出届や転入届や死亡届や行方不明者の捜索願を受け付ける係の人々もそれぞれにそれぞれな仕事をしている。すべてのお役人が同じ解釈で動いているとは限らない。誰もがハゲタカ基準で働いているわけではない。当然の話だ。
が、「消えた老人」の話は、メディアにとって格好のフックになった。
話題として使い勝手が良いからだ。
たとえば、「家族の絆の希薄化」「地域共同体の崩壊」ぐらいな話題に持ち込むための導入部として扱えば、コーナーをちょっとセンチメンタルな方向に誘導することができる。夕方の時間帯のニュースに不可欠な湿度をもたらすための蛇口みたいなニュース。逃す手はない。
「戸籍制度の盲点」「役人の怠慢」「税金の無駄遣い」というおなじみの方向に持って行くテもある。画面を指さしてズバッと指摘すれば一丁上がり。なあに手慣れた仕事ですよ。
どっちにしても語り手は当件をとっかかりに、お手軽な社会批評を展開することができる。とすれば、こんな素敵なネタはない。着地点は「いやはや大変な世の中になりましたね」ぐらい。どうにでもなる。そうやって慨嘆していればQシートは埋まる。次はスポーツです。つなぎのニュースとしては完璧だ。ちょっと湿っぽくて懐かしい昭和のエートスを感じさせるトピック。
役人の怠慢を責めるのはたやすい。
でも、実際の話、事件後二週間を経て、二百数十人の所在不明老人が発覚したのだといって、これは「異常事態」なのだろうか。私には極めて自然ななりゆきであるように思えるのだが。だって、三百人弱ですぜ。何千万人のうちの。ほんの端数ではないですか。
日本の戸籍制度は世界でも類を見ない精密なシステムだと言われている。
国民の出生や死亡や現住所や婚姻の有無や相互の血縁関係について、わが国の役所は、非常に正確な情報を把握している。少々行き過ぎではないかと思う程だ。たとえば、中南米や東南アジアの諸国の中には、そもそも戸籍そのものが存在していない国があったりする。住民台帳に似たものがあっても、そこに記載されているデータは必ずしも正確でない場合が多い。中国にしてもそうだ。都市部には膨大な数の無戸籍者が流入している。正確な数は把握できない。把握していないものの数は数えることができない。統計化することもできない。当たり前だ。
その点、わが国の戸籍謄本には、まったく逃げ場所がない。どこに引越しても、お上にはすべてがお見通しだ。われわれは金魚鉢に似た環境で暮らしている。透明性。誰のための、だ? そのくせ、うっかり電話料金を滞納すると、その日のうちに回線が遮断され、都市生活者はいきなりロビンソンクルーソーになる。住民票の移転を怠っただけで住所不定の扱いを受ける。と、彼はもう市民ではない。金魚鉢を飛び出した金魚。野良犬より始末に負えない。野良金魚。息もできない。なんということだろう。
今回の非実在後期高齢者続発事案は、あくまでもレアケースだ。
うちの国のがんじがらめな住民台帳システムにも、若干のアナがあったということに過ぎないからだ。
とすれば、これはむしろ慶賀すべきことではなかろうか。少なくとも私はほっとしているが。
1980年代のはじめ頃、私は、学校を出てはじめて勤めた会社を八カ月で辞めた。で、退社に伴って、大阪の豊中というところから住民票を東京に戻した。と、ほどなくその豊中市からハガキが届いた。住民税を納めていなかったからだ。
ふむふむと思って放置していると、しばらくして、より脅迫的な文面の督促状が郵送されてきた。そこには納税が市民の義務である旨と、滞納を続けると延滞金が課せられるという意味のことが書いてある。なるほど。私はその督促状をさらに暫時放置してみた。
と、敵は一段と脅迫的な文面の督促状を送ってくる。今度は差し押さえを示唆している。期日までに所定の金額が振り込まれなかった場合、われわれは強制的な措置に踏み切るであろう、と。肝心なところは赤字の太字で書かれている。しかも下線入り。やるじゃないか豊中。
私はちょっと盛り上がった。
なんだか権力と対峙している気持ちになったのでね。
豊中税務署の署員は、たかだか2万円ばかり(←記憶では延滞金コミで2万数千円だった)の市民税を取り立てるために、本当に出張してくるのであろうか。交通費にさえならないんじゃないのか?
で、事情通の友人に相談してみた。どうだろう。これって放っとけばテキも諦めるんじゃないか、と。
答えは
「さっさと払えよバカ」
の一言だった。
問題は徴税人がやってくるか否かではない。差し押さえが実行されるのかどうかでもない。一旦確定した税額は絶対に逃れられない。そこのところが理解できない人間は一生涯マトモな社会人になれない。だから払えと言うのだ。ぐだぐだ言ってないで。
「税務署っていうのは、警察以上にマジな全国組織だぞ」
とそいつは言っていた。税務署は地域ごとに細かく区割りされているように見える。が、横の連絡は完璧で、どこに逃げても、どこに引越しても、彼らは地球の果てまで追いかけてくることができる。絶対に逃れることはできない。あのルパン三世でさえきちんと青色申告をしている。だからお前も払え。宇宙人じゃないんだから。
税務署のネットワークは住民基本台帳のすべてに及んでいる。だから、どこからどこに何回転出しても彼らにはすべてがわかっている。決して逃げることはできない。
とはいえ、税務署とて、収入の無い人間は追跡しない。
そういう人間はネグレクトされる。
羊飼いは乳を出す羊の数を決して間違えない。必ず正確な数を把握している。毛を刈る羊の顔も間違えない。常に明確に記憶している。でも、乳を出さなくなった羊や、毛を刈ることのできなくなった老いた羊の数は把握していない。というよりも、そういう羊は既に肉になっている。ということはつまり、いまはもうこの世には居ない。だから数える必要もないし数えることもできない。どうせ骨なわけだから。
お国も同じだ。
お役人は、乳を出さず、羊毛を生まない国民の数を数えることに、情熱を持っていない。きわめて自然なことだ。肉にしないだけ温かみがあると考えるべきなのかもしれない。
今回の報道のあおりを受けるカタチで、各地のお役所がご老人の所在確認をはじめるようだ。
なるほど。なんだかとても鬱陶しいことになる予感がする。
藪を突ついて蛇を召喚する結果にならなければ良いのだが。
だって、テキはお役人ですよ。一筋縄ではいかない。そう考えなければならない。
役人に仕事を与えるということは、彼らの自己保存に協力するということにほかならない。
しかも、この仕事は、9割以上が無駄足になることがはじめからわかっている。そういう仕事だ。
無駄足。すなわち彼らの主たる業務だ。というよりも、無駄足や無駄口こそが彼らの飯のタネなのだ。
で、無駄足のついでに、お役人衆はどうせ余計なものを見つけてくる。
所在不明高齢者のための生活維持基金機構の設立準備委員会だとか、所在確認事業の経費を算出するための新たな人員の確保だとか、そういうSFみたいなことを言い出す……ようなことは、いくらなんでも無いだろうが、それでも、彼らが動いた分だけの人件費は当然お国なり地方公共団体が負担しなければならない。
消えた年金の時もそうだったが、官僚にとって、怠慢はひとつの事業だ。今日の怠慢が明日の仕事を生む。そういう構造で、彼らの組織は動いている。事実、年金が「消えた」ことは、新たな業務(年金追跡事業)を生んでおり、おかげで、彼らの組織は一時的にであれ、延命し、焼け太りし、商売繁盛している。
老人は放っておけばよろしい。
むしろ、対象者の顔を検分する必要があるのは、児童相談所に通報のあった事例についてだと思う。
ま、話は別だけど。
とにかく、関係者のアリバイのために不在者の出欠をとったところで何の意味もない。
居ない人間の出席をとることはできない。
ひとつ思い出した。
非実在高校生の出欠についてのエピソードだ。
今から30数年前、私が通っていた当時の都立高校では、「代返」という習慣が横行していた。今でもあるのかもしれないが。
教師が出席をとる時に、「代理」で「返事」をするから、「代返」。むろん、不正行為だ。が、出来の良くない高校生が安全に授業をサボるための相互扶助策として、代返はとにかく流行していたのである。
理系と文系をコース分けしていなかった私の高校では、生徒の受験科目に配慮して、出欠確認そのものをオミットしている教師が何人かいた。物理の先生がそうだった。私立文科系志望の生徒に物理の授業への出席を強要するのも気の毒だと、そういうふうに考えてくれていたのだと思う。その配慮がわれわれの未来にとって良かったのか悪かったのかは、簡単には判断できない。が、とにかく当時の私にはありがたかった。
ほかの教師も、出欠の確認にはさほど熱心ではなかった。多くの教師は明らかに代返とわかる場合でも、適当にスルーしてくれていた。まあ、大人の対応ということだったのだと思う。
が、一方には、頑として出欠にこだわる先生もいた。たとえば、世界史の先生がそっちの組の代表だった。信念があったのだと思う。
彼は、名簿順に名前を呼んで返事を確認するだけでは満足しなかった。教卓に常備してある座席表を見て生徒の名前を呼び、一人一人顔を確認ながらその返事を確認していた。これでは逃れようがない。代返なんかとても無理だ。
でも、抜け道はあった。天上から垂れる蜘蛛の糸の如き細い道が。
ある生徒(←岡康道だが)が、座席表を偽造するテを思いついたのだ。
世界史の授業が近づくと、岡は、自分の名前を抹消した自作の座席表を教卓にある本物の座席表と差し替える。ついでに机と椅子もベランダに運び出して、そのままどこかに消えてしまう。と、教師がいくら執拗に顔を確認しながら出欠を確認しても、そもそも名簿に名前が無いのだからして欠席が発覚することもあり得ない。
なんという素晴らしい生活の知恵。
でも、勝利は長続きしなかった。追随者が2人3人と増え、4人7人と増殖するにつれて、教室の人口密度が明らかに不自然な空虚さを醸しはじめたからだ。
で、無駄足のついでに、お役人衆はどうせ余計なものを見つけてくる。
所在不明高齢者のための生活維持基金機構の設立準備委員会だとか、所在確認事業の経費を算出するための新たな人員の確保だとか、そういうSFみたいなことを言い出す……ようなことは、いくらなんでも無いだろうが、それでも、彼らが動いた分だけの人件費は当然お国なり地方公共団体が負担しなければならない。
消えた年金の時もそうだったが、官僚にとって、怠慢はひとつの事業だ。今日の怠慢が明日の仕事を生む。そういう構造で、彼らの組織は動いている。事実、年金が「消えた」ことは、新たな業務(年金追跡事業)を生んでおり、おかげで、彼らの組織は一時的にであれ、延命し、焼け太りし、商売繁盛している。
老人は放っておけばよろしい。
むしろ、対象者の顔を検分する必要があるのは、児童相談所に通報のあった事例についてだと思う。
ま、話は別だけど。
とにかく、関係者のアリバイのために不在者の出欠をとったところで何の意味もない。
居ない人間の出席をとることはできない。
ひとつ思い出した。
非実在高校生の出欠についてのエピソードだ。
今から30数年前、私が通っていた当時の都立高校では、「代返」という習慣が横行していた。今でもあるのかもしれないが。
教師が出席をとる時に、「代理」で「返事」をするから、「代返」。むろん、不正行為だ。が、出来の良くない高校生が安全に授業をサボるための相互扶助策として、代返はとにかく流行していたのである。
理系と文系をコース分けしていなかった私の高校では、生徒の受験科目に配慮して、出欠確認そのものをオミットしている教師が何人かいた。物理の先生がそうだった。私立文科系志望の生徒に物理の授業への出席を強要するのも気の毒だと、そういうふうに考えてくれていたのだと思う。その配慮がわれわれの未来にとって良かったのか悪かったのかは、簡単には判断できない。が、とにかく当時の私にはありがたかった。
ほかの教師も、出欠の確認にはさほど熱心ではなかった。多くの教師は明らかに代返とわかる場合でも、適当にスルーしてくれていた。まあ、大人の対応ということだったのだと思う。
が、一方には、頑として出欠にこだわる先生もいた。たとえば、世界史の先生がそっちの組の代表だった。信念があったのだと思う。
彼は、名簿順に名前を呼んで返事を確認するだけでは満足しなかった。教卓に常備してある座席表を見て生徒の名前を呼び、一人一人顔を確認ながらその返事を確認していた。これでは逃れようがない。代返なんかとても無理だ。
でも、抜け道はあった。天上から垂れる蜘蛛の糸の如き細い道が。
ある生徒(←岡康道だが)が、座席表を偽造するテを思いついたのだ。
世界史の授業が近づくと、岡は、自分の名前を抹消した自作の座席表を教卓にある本物の座席表と差し替える。ついでに机と椅子もベランダに運び出して、そのままどこかに消えてしまう。と、教師がいくら執拗に顔を確認しながら出欠を確認しても、そもそも名簿に名前が無いのだからして欠席が発覚することもあり得ない。
なんという素晴らしい生活の知恵。
でも、勝利は長続きしなかった。追随者が2人3人と増え、4人7人と増殖するにつれて、教室の人口密度が明らかに不自然な空虚さを醸しはじめたからだ。
できれば所在不明のままでいてほしい
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