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2010年8月15日 星期日

假像真實

僕達が見て聞いて嗅いで触っていると思っているこの世界は
すべて僕達の脳の中で形作られたものだ
そこにあるものがそのままここにあるわけでもここに伝わるわけでもない
我們活在這個現實的世界
卻不是見聞感知到現實本身
我們所見、所聽、所聞、所感觸到的這個世界
全都是在我們的腦中形成的
換句話說,
我們所見、所聽、所聞所感觸到,並非現實本身的面貌

僕がはなしてるのはきわめて単純明快な つまり科学的な話だ
宗教がかった話でも精神論でもない
例えば君は今僕を見て僕の声を聞いているが
それだって僕の姿そのものでも
僕の声そのものでもない
視覚も聴覚も臭覚も
あらゆる知覚はただの信号として脳に送られるだけだ
脳は送られた記号を組み合わせることで
現実らしきものを
頭の中に再構成するわけだ

我不是在談你所喜歡的所謂的心裡學,
那個與其說是科學,不如說是文學。
我講的是極其簡潔明快的科學性的理論,
既不是宗教宣言也不是精神論,
譬如說,你現在看到我、聽到我的聲音,
但都不是我本人的身影和聲音,
視覺、聽覺、嗅覺,
所有的知覺都是作為傳送到大腦的訊號
透過大腦將接收到的各種訊號重新組合後,
在腦中再次構成你看到的世界。

再構成されたものが知覚であり
知覚していることを認識するという反応こそが意識だ
僕達が知ることの出来る世界はすべて脳という御問屋が
専売で卸した断片的情報によって組み上げられたものにすぎないんだ
そこで、じゃこのお問屋が
まがいものの情報を売りつけてきたとしょう
さて 僕らはそれを偽物だと判別することが出来るだろうか?
絶対に見分けはつかないのだよ 関口君

這再次重新組合的東西,就是知覺。
認識到這種知覺的反應,就是意識。
我們知道的這個世界,
不過是由叫做大腦的這個批發商,以專賣方式收集零碎的資訊而重新組合而成的。
要是大腦這個批發商想要賣給我們一些荒誕不羈的資訊,
我們是否有能力判斷資訊的真偽?
我說絕對分不清楚的。

脳のほかに
内なる世界の構成要素を販売してくれる問屋はないのだ
本物だろうが偽物だろうが
僕ら自身に判定することは出来ないんだ
仮想か 現実か
現実もまた仮想なのだからね
主観において嘘と真実の区別はないのさ
体験も記憶もあてになりはしない

除了大腦之外,再也沒有賣給我們這世界構成要素的批發商了。
是真?是假?只有告我們自己去判斷了。
是假想?是現實?是現實?還是假想?
在主觀上是沒有虛偽與真實的區別,
經驗與記憶也都不可靠。

だから僕らは外部記憶に頼ってそれを判定しようとする
つまり客観的な観測と記録だな
しかしだ 例えば量子力学という新しい学問がする
この学問によると 微細な世界では
観測者が観測した時点で
観測対象は変化してしまうのだそうだ
それは客観は成り立たないということだよ
まあ 当たり前と言えば 当たり前のことだが
量子力学が予想させるある結論というのはこうだ
「この世界は過去も含めて」
観測者が観測した時点で遡って生成された

因此,我們只好靠外部記憶來判斷真偽,也就是客觀的觀測與記錄。
但是呢,比如有一門叫量子力學的新科學,
根據這門科學在微觀世界,
在觀測者觀測的當下,觀測的對象已經發生變化,
也就是說客觀並不成立。
雖說這是理所當然的事,
量子力學讓我們想到的結論就是,
「這個世界包括過去」,都是觀測者在觀測的當下回朔過往所形成的。

君は徳川家康の存在を信じるか?
信じるんだな
しかし君は家康に会ったことはないはずだぜ
ではなぜ君は家康を知っているのか
それは記録が残っているからだろう
じゃあ この本に出ているような 妖怪変化の存在も
君は信じるのか?
記録に残っているということにおいては
この化け物どもだって家康に引けを取らないぜ
これは姑獲鳥うぶめだ

你相信德川家康的存在嗎?
你應該相信吧!
但,你未曾見過德川家康,那麼為何你知道他?
那是因為有記錄留存。
那麼這本書裡寫的妖魔鬼怪的存在,你也相信嗎?
所謂留有記錄,說明妖怪也不比家康遜色
這是「姑獲鳥」。

古くは「今昔物語集」から最近の民族学文献にいたるまで
こいつは頻繁に記録されている
これは柳の下に現れて
子供を抱いてくれとせがむ女の化け物だ
しかし これは 「姑獲鳥こかくちょう」と
まあ 一般には「産む女」と記すんだがね 当て読みだ
姑獲鳥というのは中国の魔物だよ
鳥と化して赤ん坊をさらいに来る

從遠古的「今昔物語集」到現代的民族學文獻記載
它都頻繁的登場
「姑獲鳥」出現在柳樹下
是求你抱她的嬰兒的女妖怪
但,難道這個就是「姑獲鳥こかくちょう」
一般
會寫「生產的女人産む女」,借音字罷了
「姑獲鳥」是中國的妖怪,化作鳥來誘拐他人嬰兒。

赤ん坊をさらう?
そう さらう
我が国のウブメは預ける正反対なんだが
どういう訳か 混同されてしまった
「和漢三歳図絵」あたりではすでに混同されてるね
「百物語評判」なんかではこう記されている
「産の上にて身まかりたりし女その執心 このものとなれり」
「その形 腰より下は血にそみて」
「その声 をばれう をばれうと 鳴くと申しならはせり」
どうも夢うつつだなあ 何か見えたのか?

日本的ウブメ正好相反,妖怪會要你抱她的小孩,但不知怎麼回事,兩者往往被混為一談
像什麼和漢三歲圖繪早就混淆了
百物語評判是這樣說的
死於難產的女人其幽怨化作本身,其形染做腰身下血,其聲化作哀鳴纏繞不離


この世には不思議なことなど何もないのだよ 関口君
這個世界上沒有什麼稀奇古怪的事情

妹:この偏屈兄貴は人を煙に巻くのが生きがいですから

ウブメは俗に お産で亡くなった女性の幽霊だとよく言われています。 だが、違う。 これは「お産で死んだ女の無念」という概念を形にしたものです。 しかし、死んだ者に無念などない 生きている人間こそが 「さぞ無念だったろうな」などと考えるのです。 あやかしの形を決定するのは生きている人間 すなわち「あやかしを見る方なのだ」と僕は定義します。
人間の脳は目で見たことを自分の都合のいいように変えてしまうことが有る
エゲレス語でバーチルリアルティ仮想現実 あくまで僕の考えですが

石燕之所以把姑獲鳥寫成這幾個字果然還是依據了和漢三歲繪圖, 不過
和漢三歲繪圖寫的那幾個字不是那樣發音的, 鳥是鳥呀, 而且西鶴的好色一代女, 寫的也是主人翁被姑獲鳥所惱但這裡是嬰兒,被拖胎掉的嬰兒們排成一列訴說忿恨, 你不是主張姑獲鳥是難產而死的女子的幽靈的嗎?

世間都說姑獲鳥是難產死去的女人的幽靈
但不是
這只是將
“姑獲鳥是難產死去的女人的幽靈“概念化了
但,往生者是沒什麼幽怨可言的
只不過是活著的人想 大概感覺很幽怨吧
將這說成一種鬼怪形態的 是活著的人
我的定義即是--人為視作鬼怪
哲学などではありません 科学です。
你說的好哲學啊
不是哲學,是科學


なんでも「おしょぼ(讃岐でいう死亡した子供の妖怪)憑(つ)きの筋)」 だそうで 筋:plot(物語・小説・劇などの) 憑き物筋とは憑き物を操る家系という意味だ 民族社会におけるいわゆるひとつの装置 共同体に不可解な出来事が発生した場合の解決手段として設定されている装置だ 記憶がさたか 定か:はっきりしているさま 御伽草子(おどきぞうし)の陰陽師のように 氏子(うじこ)でも禰宜(ねぎ)でもない者を神殿には入れられん

意味のない存在に意味を持たせ 価値を見出す言葉が呪い(のろい)だ 「脳に仕掛ける時限爆弾」みたいなものさ

讓沒有意義的存在讓它產生意義,且找出有價值的語言,就是咒語
說起來就像「安裝在腦子裡的定時炸彈」一樣。

人を呪わば穴二つ愉快なもんじゃない

「父無し子」ててなしご
1.父親に死なれて、母親の手で育てられた子。ててなしご。
2.父親のわからない子。私生児。ててなしご。

仏教は愛という観念は
捨てるべきだと説いている
愛すなわち執着と言い換えることが出来るからね
あらゆる執着を捨てることが唯一の解脱(げだつ) 如来(にょらい)へ至る道なんだ

君の脳は見ることを拒否した 心の求めるに応じて 現実を都合のいいようにねじ曲げだんだ 我々が今 見て聞いて 体感していることの世界は 決して現実のそのままじゃない それぞれの脳が選択した単なる情報の再構成だ 我々皆 脳というものがつ作り上げた  ある種の結界に囚われているのだよ

我們的大腦會去拒絕看到的東西
為了迎合內心的需求,將現實的世界扭曲成對自己有利的情境
現在我們所見所聞所感的這個世界
並不是現實世界所顯現的那樣
Virtual Reality
而是每個人的大腦在各取所好下各種單一資訊而重新建構而成的
所以我們每個人,其實都被囚禁在大腦所佈下的某種結界裡。

扉を開けたら死体がある捜すも蜂の頭もあったもんじゃない
耳は閉じることが出来ない
だが声だけが聞こえないこともある
不可能關上耳朵 但是聽不進的時候
所以你睜開眼睛

人類的大腦往往會將眼睛看到的事物曲解成對自己有益的情境

想用懷孕逃避丈夫死亡的事實
你當然有不想承認它存在的理由


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##HIDEME##