こういう時というのは、何を、どう書いたらいいのか、実に悩む。
実際に被災地にいるのなら、その場で起こっていること、その場の空気、そこで感じることをありのままに書きつづることもできる。
だが、今、私がいるのは被災地ではない。少しばかりの募金をしたり、できる限りの節電をしたり、必要最低限のものしか買わないようにしたりと、今、できることを、可能な限りやってはいるが、それだけでしかない。
温かいご飯を食べ、暖かい寝床で寝ているくせに、「被災者のために〇×すべきだ!」などと、勝手な思い込みで発信することはやりたくない。だって、それはある意味、偽善であり、おごりじゃないかと思うからだ。
であればとばかりに、「被災者の方たちが少しでも元気になる原稿を!」と願ったところで、実際に被災している多くの方たちが、このコラムを読める環境にあるとは到底思えない。
もどかしい。でも、何かやりたい。自分なりに。今できることを──。
被災地にいない人に知ってもらいたいこと
そう思うと、余計に何を書いたらいいのか分からなくて、パソコンのキーボードをたたく指が重たくなる。
で、散々悩んだ結果、今、このコラムを読める環境にいる人、「何かやりたい」と思っている人。そういった方たちが、今後(あるいは既に)、被災者の方たちの力になるべく、手を差し伸べた時に、少しでも役に立ちそうなことを書こうと思う。
この先、日常を取り戻すようになればなるほど、被災した方々は、いくつもの厳しい現実と向き合うことになるだろう。とりわけ今回の被災者には、高齢の方たちが多いように見受ける。この先復興していくうえで、おじいちゃん、おばあちゃんたちには、まだまだ元気に頑張ってもらわなくてはならないし、元気でいてほしいと心から願う。
そこで、被災した高齢者の方たちに私たちが接した時に、おじいちゃん、おばあちゃんたちを元気づけるために知っておいた方がいいことは何か。これまで行われてきた高齢者と地震、あるいは強度のストレスが高齢者に及ぼす影響などの調査結果を基に、あれこれ考えてみようと思う。
調査結果がベースになるため少々読みづらいかもしれないけれど、少しでもこの先思い出して、支援に役立てていただければ幸いです。
生きる力は若い世代よりも高齢者の方が上
まずは、今回の震災がもたらす甚大なストレスに対処する力(=生きる力)が、高齢者と若い世代とで違いがあるかどうか、について考えてみよう。
地震が発生してから4日後の3月15日には、大津波で壊滅的な被害を受けた岩手県大槌町で、津波で流された民家から、75歳の女性が救出された。地震発生から約92時間ぶりのことだった。また、同じく大津波で甚大な被害を受けた宮城県石巻市門脇町では、9日ぶりに80歳の女性と、16歳のお孫さんが救出された。
どちらも被災者の生存率が大きく下がるとされる「地震発生後72時間」を大きく過ぎた中での生還で、奇跡に勇気づけられるのと同時に、「高齢で体力的に本当にシンドイ中、踏ん張ったのだなぁ」と頭が下がる。
恐らく助けに向かった息子さんや、一緒にいたお孫さんの存在が大きな支えになったのだろうが、そこで本人が「どうにかして踏ん張って生きよう。生きたい」と思わない限り、奇跡は起こらない。
想像を絶するような困難に遭遇した時に、「どうにかして乗り越えよう。きっと乗り越えられる」という気持ちを本人が持てるかどうかは、非常に大切である。
この気持ちは、ストレス対処力(生きる力)として何度もこのコラムで取り上げてきたSOC(sense of coherence=首尾一貫感覚)である。それは、「どんな状況の中でも、半歩でも、4分の1歩でもいいから、前に進もうとする、前向きな力」と置き換えることができ、すわ困難な状況に遭遇した時に、困難を乗り越えようと踏ん張る強さだ。
一般的には、若さ=生きる力、というイメージがあるが、実際には高齢者の方が若い世代よりも、生きる力が高いことが分かっている。
国内の20代以上の成人男女を対象とした全国調査では、生きる力の指標でもある、SOC得点で比較した場合、年齢が上がるほど得点が上昇していることが認められているのだ(NHK日本人のストレス実態調査委員会・山崎喜比古ら調べ)。
20代のSOC得点は40.3点、30代で41.1点であるのに対して、60代は47.3点、70代以上も47.3点で、なんと7ポイントも高齢者の方が高かったのである(満点は65点)。
また、アメリカの独居高齢者、イスラエルの退職女性、カナダの65歳以上の高齢者を対象とした海外の調査結果でも、若い世代の得点を上回った。
そもそもSOCは、人生上にあまねく存在する困難である人生の雨を、傘を何本も使うことで歩き抜き、雨上がりの太陽に照らされることで高められる力だ。
草木が雨に当たり、太陽に照らされることで、幹を太め、枝を増やして成長していくように、高齢者は、長い人生の中で遭遇した数々の困難を乗り越えることで、生きる力を高めてきたのだろう。
震災後、「戦争の時だって焼け野原だったのに、復活したんだからさぁ」と明るく笑うおばあちゃんの姿がテレビに映し出されていたが、高齢者は私たちが想像する以上に生きる力が強いのである。
ところが、生きる力を一気に失うことがある
そんな生きる力の高い高齢者ではあるが、高齢になってから、予期せぬ甚大なストレスに遭遇すると、時間の経過とともにたちまちそれまで育んできた生きる力が失われてしまうことがある。
不意打ちの雨はいつまでもしつこく降り注ぎ、頑丈だった枝をへし折り、太い幹にヒビを入れ、頑張ろうとか、踏ん張ろうとか、そういった気持ちを萎えさせていくのだ。
例えば、阪神・淡路大震災の時には、仮設住宅に転居した後、高齢者の孤独死が問題になったことがあったし、高齢者が多数を占めた能登半島地震の時の調査によれば、仮設住宅に住む高齢者のPTSD(心的外傷後ストレス障害)の罹患率は21.6%と、高い割合が示されたという報告もある。
さらに、高齢者にとって、「昨日と同じ今日がある」という状態は、大きな精神的な支えとなる。ところが、既に被災した方々にとって、もはや「昨日と同じ今日」は存在しない。
たとえ復興が今後進んだとしても、震災前の日常を完全に取り戻せることはない。
今はまだ、みんなで被災している状況であり、互いに励まし合いながら踏ん張ることができる。だが、多くの人が望み、みんなが整備しようとしている日常が戻れば戻るほど、「昨日と同じ今日」を失ったおじいちゃん、おばあちゃんたちにとって「いかに今後を、生き抜くか?」が最大の課題になってしまうのだ。
つまり、大地震と大津波という、甚大なストレスを乗り越える強さを持っていたおじいちゃん、おばあちゃんたちではあるが、これからが厳しい、ある意味で本当の闘いであり、これからの“現実”の方が、今よりもしんどい時間になるというわけだ。
では、今後に厳しい現実に直面したおじいちゃん、おばあちゃんたちが、元気でいられるために、私たちができることは何か?
参考になりそうなのが、上武大学看護学部の本江朝美教授らが行った60歳以上の高齢者約200人を対象にしたSOCに関する調査研究だ。
この調査では、高齢者のSOCと関連の強い項目を模索している。その結果、
・「自分は健康である」といった主観的健康観が高い
・経済状態が良好である
・新しいことにチャレンジしている
・困った時に相談できる人がいる
の4項目が、SOCの高さと関連が強いことが示された。
特に、「自分は健康である」と評価できる状態は、SOCと最も関連が深く、同様の傾向は欧米の調査結果でも示されている。
年を重ねれば、多かれ少なかれ加齢から生じる症状や病に向き合わなくてはならず、明らかに体力は低下していく。それでも、「あっちこっちガタはきてますけど、元気ですよ」と思えることが、前に進もうという気持ちを後押しする。
念のため補足しておくと、主観的な健康状態とは、文字通り主観的なものである。慢性疾患を患っていようとも、毎日飲まなくてはならない薬があろうとも、「私は元気です」と言える状態を表す。
つまり、災害の後には「メンタル面のケアが必要」とされているが、精神的なケアの前に肉体的な不安を徹底的に払拭するためのケアが必要なのだ。
具体的には、既に報道されている医薬品不足の解消、医師の確保、加えて、暖かい住環境や満足できる食環境などなど……。
「もう大丈夫だ」と、高齢者が思える環境づくりや環境整備にプライオリティーを置き、そのために私たちができることに取り組まなくてはならない。
「大丈夫」と言う人から本音を聞き出す
当然ながらこういった環境づくりは、個人でできるものではなく、ほとんどは国や地方自治体に任せるしかない。
だが、それだけで終わるわけではない。
主観的な健康は、日常生活とともにある。これから私たちが被災地に出向き、直接被災した方々とかかわる時にも、「おじいちゃん、身体、しんどいところはないですか?」と気遣うことが肝心だろう。
ところが、これが結構難しいのだ。
阪神・淡路大震災の時に、毎週被災地に通った知人の話では、高齢者の多くは痛いところ、調子の悪いところがあっても本当のことを言わずに、「大丈夫」と答える傾向が強いという。「いろいろと親切にしてくれているのに、これ以上甘えちゃ悪い」といった、高齢者ならではの気遣いが、本当は大丈夫じゃないのに、「大丈夫」になってしまうのである。
その壁を取り除くには、とにもかくにも心の距離感を縮め、おじいちゃんたちが少しでも甘えてくれるような環境をつくるしかないだろう。
例えば、声をかけるだけでなく、実際に肌に触れてみる。世間話をしながら、肩をもんであげたり、足をさすってあげたりすると、ついついポロリと、本当に痛いところや心配な個所をこぼすことがある。先の知人も、「肩もみをしながら話をすると、身体の状態が結構分かる」と言っていた。
高齢の方を「お客さん」扱いしない
そして、何よりも、私たちが手を差し伸べた時に、忘れてはいけないのが、先の調査で示された、「何か新しいことにチャレンジしている」という状態をつくることだ。
力になりたい気持ちが強い時、私たちはついつい高齢者を『お客さん』扱いしてしまいがちである。
「おじいちゃん、僕がやるからそこに座っていていいよ」
「おばあちゃん、私がやるからゆっくり休んでいて」
といった具合に。
もちろん肉体的に疲れている時は別だが、そうではない時には、むしろ高齢者にも、一緒にかかわってもらった方がいい。
「僕はこれやりますから、おじいちゃんはこれをやってもらえますか?」
「おばあちゃん、私はこれをやりたいんですけど、やり方が分からないので教えてもらえますか?」
などと、役割を与えてみる。
役割があることが、すわ「新しいことにチャレンジしている」気持ちをもたらすのだ。
以前、私がかかわった調査研究でも、「孫の世話がある」「家事をやらなくてはいけない」と、生活習慣で社会的役割を持っている高齢者は、そうでない高齢者よりも元気な傾向が認められた。
高齢者を対象とした健康増進プログラムでも、高齢者の中から交代でリーダーとなり、そのリーダーがみんなに教えるような形でプログラムを実施した方が、精神的な健康度が高まった。
そういえば、既に亡くなってしまわれたが、100歳の双子で人気者になった、金さん銀さんは、人気がどんどんと高まって、取材やらイベントに出席やらで、忙しくなったことで、ますます元気になり、白髪が黒くなったと聞いたことがある。髪の毛の話はホントかウソか分からないけれど、社会的な役割を持ったことで、金さん銀さんがますます元気になったのは本当なのだろう。
いずれにしても、私たちだって「誰かに必要とされている」とか、「やるべきことがある」状態に、生きている意味を、自分の存在意義を見いだす。高齢者にとっても、それは同じこと。
どんなに年を重ねても、「誰かの力になれる」「誰かに感謝される」ことで、生きている意味は見いだせる。人は誰かの世話になるより、誰かの世話をしている方が、誰かに優しくされるより、誰かに優しくしている方が、自分がそこにいる意味を感じることができるのである。
何か自分にできることがしたい。大きな悲しみに遭遇している人の力になりたい──。
そういう思いが強くなればなるほど、無意識に「やってあげる」感が強まってしまうことがある。
「ケアする人とケアされる人」、「サポートする人とサポートされる人」という関係になってしまうことは、時に「強者と弱者」という構図とも重なっていく。
サポートされる人、ケアされる人は、「力を貸してくれてありがたい」と思う一方で、自分の無力さにさいなまれてしまうことってあると思うのだ。
そんな時、「教えてください」「力を貸してください」「これやってください」と、頼りにされることは、おじいちゃんたちにとってもうれしいのではないだろうか。
それに高齢者の方たちは、人生における私たちの大先輩だ。
せっかく大先輩たちにかかわれるのであれば、大先輩に教えを請う方がいいじゃないか。おじいちゃんたちにとっては何でもないことが、私たちにとっては「すごい!」と感動することだってある。おばあちゃんたちのやり方が、私たちにとっては「カッコイイ!」と思うことだってあるかもしれない。
私たちが「おじいちゃん、おばあちゃん、教えてください」という謙虚な気持ちを忘れることなく接することができれば、おじいちゃん、おばあちゃんたちを、むやみに無力感に陥らせることは防げるはずだ。
ただ話に耳を傾けるだけでもいい
そして、その時には、是非とも、積極的におじいちゃんやおばあちゃんの話に耳を傾けてほしい。
「おじいちゃんの若いころって、どうだったんですか?」といった具合に、“自分史”を好きに話してもらうのだ。
生まれた場所、若い時の仕事、いつもやっていたこと、好きな食べ物……。 何でもいいから、思い切り、話しすぎたと反省するくらい語ってもらうといい。
どんなに無口に思える人でも、
「私は〇×が好きなんですけど、おじいちゃんは?」
「僕の家では昔からこんなことやるんですけど、東北ではどうなんですか?」
などと、話しかけると、意外と話してくれるものである。
何か話をさせようとするのではなく、おじいちゃんのことを、おばあちゃんのことを、そして、自分のことを知ってもらうために、無駄話をすればいいのだ。
もし、そこで記憶の箱に詰め込んだ悲しい記憶を、自ら語り出すことがあったとしたら、気の利いた言葉を言おうなどとはせずに、「うん、うん」とうなずくだけでいい。
自分の話を聞いてくれた人がいる、自分の話を存分に語ることができた。そんな経験が、つらい記憶へのカタルシス効果をもたらすこともある。
いろいろと話せた、自分の話に耳を傾けてくれた人がいると知るだけで、深い心の闇に一瞬風が吹き込んで、少しだけ楽になるのだ。
だからといって、おじいちゃんやおばあちゃんの苦しみが消えるわけでもなければ、悲しい思いがなくなるわけでもない。どんなに私たちが寄り添おうとしたところで、少しでも苦しみを軽くしてあげたいと願ったところで、悲しみが取り除かれることなどないのだ。
けれど、どんなにつらくとも、「私には支えてくれる人がいる」「人のきずなの大切さを知った」「自分には信頼できる人がいる」と感じられれば、前に進む勇気を持てる。
自分の悲しみや苦しみに寄り添ってくれた人がいる、そう思えることが、降り続く雨の傘となる。
私たちには被災した方たちの悲しみを取り除くことはできないけれど、共に生きることは十分できる。
今、そして、これから私たちにできること。それは『共に生きる』ことだ。
その気持ちを忘れないでいることが、被災した方たちが一番求めていることなのかもしれない。